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トラウマケアと8月

2020年1月から、精神分析的心理療法によるトラウマケアを始めて、1年8カ月が経つ。

2021年の8月。

2020年の8月。

2019年の8月。

私の頭の中では、1年間は一本のリボンのようになっていて、左から1月、2月、3月、、(或いはザックリと冬春夏秋冬)と区切られている。

(なので、左端にある1月1日と、右端にある12月31日は遠い。2020年12月31日から2021年1月1日は、次のリボンにうつるので、12月30日と12月31日に比べると、同じ24時間違いでも、より遠い感じがする。)

(でも、このリボンから離れて、「昨日」と「3歳のある日」の出来事を取り出すと、「いま」との距離感があっという間に、等しく同じだけ近くなる。なんで?)

1年間で一本のリボン。それを何年分か重ねると、一番上が2021年の8月で、その下に2020年の8月。その下に2019年の8月、、、というように、各年の8月は層のようにして積み重なっている。

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私は、ここ数年の「8月」を定点で取り出して、そこに居る自分自身を比較するのが好きだ。

私が愛して止まないのは、「百葉箱」の音なのだけど、たぶん、それは百葉箱が、温度と湿度という日々変化していくものを、ただひたすら正確にありのまま計測し、データを積み重ねていくモノだからだろう。

積み重なったデータを取り出して、あれやこれやと、いろんな角度から分析を加えて思索を深めるのが私は好きだし、こうした自己洞察の営みは、私の周りが嵐のように吹き荒ぶ音に満ちていても、私の気持ちを落ち着かせ、安定させてくれる。

2021年8月の私は、「自分」を生きている。自分自身を知ろうとしているし、誰よりも自分の味方であろうと決めている。拙い言葉で自分を主張し、ときに周りの人を傷つける。そのままの自分、でぶつかっていって、受け入れてもらえなかったら、傷つく。傷つけたり、傷つけられたりしながら、でも、そのままの私で生きることを、諦めていない。

トラウマの影響から、「本来の自分」からかけ離れて、モンスターのように牙をむいて攻撃的な態度をとるときもある。「ごめん」と思う。「でも、私も、困っています!」と必死に叫ぶ。「(あなたがこの不安定な私と関わるのが大変なことも、私の攻撃性があなたを困らせていることも知っています、でも)私だって、私に、困っています」「私には助けが必要です。どうか、手を貸してください!」と、何度だって、他人の好意に甘えて、信じて、頼ってみている。(はっきり言って、毎回謎に泣いています。)

2020年の8月は、まだその心の準備が整っていなかった。トラウマの影響には気がついていたものの、自分の内々で対処できると、自分の傷を過小評価し、膿んだ深い傷を見て見ぬふりをしていた。日常的に小さな無理を重ね、傷ついた自分に自分が鞭打って、まだやれるまだ足りないまだ頑張れる、と、自分で自分を痛めつけていた。

確か夏のある日だった。(→子供達の夏休みは終わって学校が始まっていたので実際には9月のある日だった。でも、記憶のリボンの上では、この日の出来事は、やや右側の方、「夏の終わり〜秋の始め」くらいの位置に置かれているから、8月の層に含まれて思い出された)自室で仕事に追われているときに、元交代人格の「子供の私」が突然に泣き出した。「もう仕事、やめて。あなたは自分がどれだけ疲れているか、気づいてない。一旦なにもかもをストップしてほしい。いまの私に仕事をする余裕はない」。

振り返ってみると、あの日の、子供の自分の無邪気な泣き声に正しく向き合えたことが、私にとっての大きなターニングポイントになった。

2019年の8月。あの夏は、私が、自分という屍の中でなんとか生き延びてきたことを、夫に訴えることができた初めての夏だった。あの頃は、誰にも迷惑をかけず、ちゃんと日常生活をこなし、それなりに自分の人生を自発的に築いている、と思い込んでいた。本当には自分の土台が、今にも崩れ落ちそうなぬかるみの上にある、と、気が付きたくなくて、見て見ぬ振りするしかなかった、最後の夏だ。

この3年間の、3つの8月を比較して、私の心は涙で洗われるような気がする。カラカラに乾いた心が、素朴な情動で満たされて、「生きてる」と感じる。この涙の音はとても重層的だけど、自分自身で在ることの「喜び」がベースにあることは、特筆すべき特徴だろう。

トラウマケアは、気楽な作業ではない。自分自身が自分に見せてきた幻想を払いのけて、自分の人生の真実をまっすぐに見つめる取り組みだ。

とても大変だけど、取り組む価値がある。

【追記】

1年間の見え方について、海外の共感覚グループに図を上げたら、思いのほか盛り上がった。これも、共感覚の一種だったみたいだ。

「同じ!」や「年は違うけど、週はこれ」、「私も左端が1月で右端が12月」。「私も年はリボンだけど、1年は上で12月は下なの」、「私の場合、1月と12月は1番上でくっついている、時計みたいにね。だから、8月はちょうど左端下側のカーブの辺りにあるわ」「私の場合は数字だけ。それぞれの月で色が違うの!」etc...。

「僕の一年もリボンだけど、1月は12月より高い場所にあるし、自分の周りを取り囲むようにあるんだ」「私は螺旋状になってるわ」などもあり、同じリボンでも、ここまでバリエーションがあることに驚いたし、こういう会話が純粋に楽しかった。

「こんな風に「年」についてオープンに話せるのは楽しい、みんなは僕のことを変わった人としか見ないからね😂」なんてコメントもあって、なんだかウルッとしてしまった。私も、「1年ってどんな感じ?1月はどの辺り?左端?」と聞いて、「はあ?見えたことないんだけど?」とか言われて(子供に、、😅)ちょっと、寂しかったので。。

この出来事がいつのことだったかを思い出そうとすると、このリボンが現れて、「右端に近いから冬だな、、年は2個下だから2019年の層、」みたいになるんだけど、いざ説明しよう、図に描こうと思って詳細をよく見ようとすると、イメージが煙みたいに消えてしまう感じがして、(それにリボンは3Dで、たなびいている。平面の紙面に静止画を描く方が無理があった)時間はかかったけど、描いてみてよかった!




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