不安を安心に変える自分に合った方法を、身体はすでに知っているのかもしれない、という仮定
この春から小学1年生にあがる子供は、「登校」に課題を抱えている。
幼稚園は、「遊びこそ学び」の理念に共鳴して上の子のときからお世話になった私立幼稚園だった。
「遊び」の世界から、座学中心の生活への移行。「小学一年生の壁」とも呼ばれるこの時期に、元々センシティブなところのある子供が、「登校」に課題を抱えるのは、自然過ぎるとも言えるほど自然な現象だと思う。
本人の気持ちとしては、「学校に行きたいな、友達と遊びたいな、勉強したいな、給食食べたいな」と、望んでいる。
「緊張なんかしてないよ。学校サボりたいわけじゃないよ。でも、おなかが痛くて泣いちゃうの」と言う。
本当にその通りなんだと、今の私には心底理解ができる。気持ちはこうしたいって、望んでいても、身体が言うことを聞いてくれない、だから困っている。
「ねぇ、ママ、わかってくれる?怒らないでくれる?責めないでくれる?出来ないのに、出来なきゃいけないって、無理に頑張らなくてもいい?出来るようになるまで、そばに着いて見ていてくれる?」
子供の「腹痛」は、そういう、言語化できない思いが、身体化されたものじゃないかな、と思う。
「大丈夫だよ。あなたが弱いんじゃないよ、悪いんじゃないよ。環境が大きく変わるときは、新しい環境に慣れるまで、それぞれに時間が必要なんだけ。
誰もあなたを責めないよ。無理に頑張らなくていいよ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、出来ることを、自分のペースで、やってみよう。
やってみたらできるかな?できなかったな、やめとこう。やってみたらできるかな?あれ、思ったよりすんなりできた。やった、けっこうやればできるじゃん。次はこれをやってみようかな?それを繰り返して、気がついたら出来ていた。何が起こるか、試してみない?
1人でやるのは大変だから、ママやトーチャン、学校の先生や友達、周りの人はみんなあなたをサポートしたいと望んでいる。誰も、出来ないことを、怒らないし責めないし、出来ないことを無理にさせようとはしないから。絶対、1人ぼっちにはしないから。」
いまの子供は、いろんなことが不安だ。椅子に座り続けて授業を受けること、覚えたての平仮名をノートに書き写すこと、決められた時間内に体操服に着替えなきゃいけない雰囲気、今までは知らない友達、持ち物に名前があるかどうか、日直って何、挨拶にも守らなきゃいけない型があるみたい、給食は美味しいけど友達とは喋っちゃいけない(コロナ対策)、着慣れない制服、etc...
なにもかもが、馴染みのない空間で、知らない時間。あまりにも大きな環境の変化だ。
特に子供を不安にさせるものは、「忘れ物」らしい。朝一番に翌日の時間割を書くらしいのだが、それで「今日の時間割」と「明日の時間割」のどちらが「今日の時間割」なのか、よく分からなくなるみたいだ。
だから、今日算数がなくて算数を持って行ってなくても、明日算数があって時間割に算数を書くと、「忘れ物しちゃった」とパニック🤯になって、ドキドキして、涙が出る。お腹がキリキリ痛くなる。何回「これは明日の時間割だから、今日算数持ってきてなくても大丈夫だよ、忘れ物、してないよ」と言われても、納得がいかない。やっぱり自分は忘れ物をして、授業が受けられないんじゃないかと不安になって、どうしようどうしよう、となる。
周りからみるとなんとも可愛らしいのだが、「朝時間割書いたら算数ってあるかもしれないけど、それは明日の時間割だからね、今日は忘れ物してないよ」と朝伝えても、何度も何度も時間割を気にするようになった。
どうしたもんかね、、と頭を悩ませていると、毎日「全教科を持っていく」ようになった。「重たいんじゃない?」と聞いたけど、「これなら絶対、忘れ物しない」と誇らしげだ。「確かにこれはいい考えだ。ママには思いもつかなかった。ちょっと重たいけど、学校近いしまあいっか。ほんとにあなたは賢いわ」と感心すると、嬉しそうにニコニコ笑った。
最近は、登校時にずっとポケットに手を入れているから、「どうしてポケットに手を入れてるの?」と聞いてみた。「ハンカチとティッシュ、忘れてないかなと思って」と言う。
「ハンカチとティッシュ、あった?」と聞くと、「あった」と言う。「なら、手、出してもいいんじゃない?こけそうになったとき、両手が出せるかもよ」と言うと、「でも、もしかしたら、どこかに逃げちゃうかもしれない。だから、こうして、押さえてるの」と言う。
なるほどね。ハンカチとティッシュ、足が生えて逃げちゃいけないから、逃げたら忘れ物になっちゃうから、居なくならないように、忘れ物にならないように、押さえているわけか。
いや、賢い。確かにそういう理屈なら、ポケットに手を入れて、ハンカチとティッシュが逃げはしないことを確認しながら登校する方が、ずっと安心だ。「こけるかもしれない可能性」っていう、「ママの」不安に応えるより、「忘れ物しちゃうかもしれない」という、「自分の」不安に答えを出す方が、ずっと優先順位が高い困りごとだ。
自分の不安を、どう安心に変えるか。
いま、子供は子供なりの方法で、確かめながら生きている。立派なことだ。
そもそも、「忘れ物したらまずいぞ」と怯えるような心持ちにしてしまったのは、私のせいかもしれない。
今までの私は、「ちゃんとしなきゃ」「困りごとは胸に秘めて、普通のふりをしなきゃ」「だれにも頼っちゃいけない」「1人でできるようにならなきゃ」etc...の世界に生きてきたし、今だって、無意識のうちに忍び寄る、トラウマの影から、這い出ようと、必死に、練習中なのだ。
「忘れ物しても誰も怒らないよ、たいして困ることじゃないよ」なんて助言を、子供が「そんなこと知ってるよ」と笑ってくれるようになれば、私は自分の生き方が少しは変わったのかな、と思えるのかもしれない。
「私」と「あなた」。自他の区別が、少しずつついてきた。私は子供じゃないし、子供は私じゃない。いま、困っているのは「私」じゃなくて、「子供」。
「学校」や「学校の先生」が私のトラウマにとって、破壊的なトリガーにはなっていて、子供の送迎、に対して「私」も困ってはいるけど、それはそれ、これはこれ。
私はもう、「大人」だから。夫っていう、最強の助っ人に恵まれたから。1人じゃないし、今の私は、安全で安心な場所にもう、いるから。
自分も無理をしないし、子供にも、無理をさせない。私は私を大切にするし、あなたのことも同じだけ大切にする。
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