鉄路の絶えた北の終着駅へ
本州と北海道が鉄路で繋がって今年で三五年。七年前には新幹線も北の大地へと伸び、津軽海峡の往来は大きく変化した。「津軽海峡・冬景色」に歌われた風景はもはや過去のものである。また、太宰治が「津軽」において「路の尽きる個所」と書いた竜飛崎まで伸びる鉄路の命運も時代の流れと共に尽きようとしている。
津軽地方の長い冬が出口を迎え、人々の口調からも春の訪れが感じられるようになってきた三月末。私は静かな青森を経ち北のはずれへと向かう旅人となった。早朝の車両には私を含め僅か数名のみ。列車は私達乗客と空気を北へと誘う。残雪は消えたとは言え、まだ緑の見えない殺風景な平原が一面に広がり、遠くには真新しいコンクリートの高架が一直線に繋がっている。しばらくすると車窓に陸奥湾が姿を現す。眩い朝日に照らされた水面が私達を歓迎しているようだ。
しばらくして外ヶ浜町の中心駅、蟹田駅に到着。青森から乗ってきた電車はここが終点であり、更に北に向かうにはここで乗り換えが必要となる。
乗り継いだ列車は真新しい一両の銀色に輝くディーゼルカー。列車の短さからもこの先、更に辺鄙な土地になっていくことが察せられる。
私と共にこの列車に乗り込んだのは、いつ無くなるやもしれぬ北の終着駅を訪れたいという目的を持っているであろう剛の者たちばかり。一〇名に満たない乗客を乗せて列車は静かに蟹田駅を後にする。「津軽は風の町だね」と太宰が残した言葉が書かれた木の看板が車窓に流れる。
気動車のエンジン音とレールの音をBGMに流れ行くまだ春遠い津軽の田園風景を眺めていると、突如として真横から立派なコンクリートの建造物が合流して来た。青森を出てしばらくした時、遠くに見えた立派な高架はこの新幹線のためのものであったのだと気付く。新幹線はもう少し先にある本州最期の停車駅奥津軽いまべつまで津軽線と並行して走る。しばらくすると乗車していた列車は小さな津軽二股駅に到着。新幹線に乗り換えるのであろう数人の乗客は荷物をまとめ急いで下車していった。新幹線駅というとどうしても地方を代表する立派な駅をイメージしてしまうので、こんなところに駅があるのが不思議に思ってしまう。
津軽二股駅を出て新幹線の高架を横目に更に進むと、いよいよ北のはずれという雰囲気が車窓からもじわりじわりと伝わってくる。青森を出た当初は快晴だったはずなのに、空は鈍色になりどこか陰鬱な気分になる。線路際の雑木林は残雪で白く化粧をまとった姿で私達を出迎える。ああ、この地の春の訪れはもうしばらく先なのだろう。
無機質な自動放送の後、列車は三厩駅のホームへと滑り込んだ。ホームの端よりレールは錆びた車止めまで続き、青森から約五六キロ、東京から約一一〇キロ繋がって来たレールはここで途絶えた。
乗務員の休憩室を併設した小ぶりな駅舎にも「津軽半島最北端の駅」の文字が刻まれ、この地が北のはずれであることを来るものに感じさせる。ここから竜飛崎までは一四キロ。丁度、ピンク色の目立つ町営バスがだだっ広い駅前に滑り込んできたところだった。私と共にこの駅に降り立った者たちはさらなる最北の地を目指すものと、名残を惜しみつつ来た道を引き返すものの二手に分かれることになる。後の予定が控えていた私は竜飛崎への憧れを懐きつつも、後者として「蟹田行き」に変わった列車に再び乗り込んだ。
この旅から数年後、津軽線は大雨により盛土が流出するなどの大きな被害を受け、蟹田~三厩間は代行バスでの運行が続いている。被災前より利用状況は芳しくなく、復旧費用も膨大であることから、JRは自治体に対し乗り合いタクシー等を含む自動車交通への転換を提案している。協議は未だ続いているが、2023年12月には外ヶ浜町の町長が住民説明会においてバス転換への賛成を表明。近いうちにこの区間の処遇は明らかになることだろう。おそらくは、路線の廃止とバスへの転換。現在の代替バスの利用状況を見るに、利便性を考慮すれば決して悪いことばかりではない。とはいえ、最北の地までつながる鉄路がこうして失われていくことには口惜しさを感じてやまない。
太宰が生きた時代から現代にかけて先人たちはより早く、より快適な往来を目指し我が国の隅々まで線路を伸ばし改良を重ねてきた。しかしそんな時代が一つの終焉を迎え、新しい時代が始まる。そんな分岐点に私達は今立っているのかもしれない。
(2024/1/10 一部改稿しました)