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隔靴掻痒

左脚が痒い。正確には左脚の脛の辺りが震源地だ。だが、悲しいことに固定された両腕では自分の腹さえも満足に搔けない。昨日試したから、一日足らずでは流石の最先端医療でも何も変わらないだろう。天井を見つめながら私は思った。この痒みさえも愛おしい。生死を彷徨った私にしてみれば、この煩わしい人体エラーの様な感覚も生の実感へと変換させる。あぁ、今日も天井は白く、カーテンは青い。今の世界はこれだけで完結してしまうが、一時期外界を遮断していた私にとってはむしろ都合が良かった。露出した頬に涼風が触る。どこか新緑の香りがした。その香りはまだ私には刺激が強すぎた。

「おはようございます。伊集院さん、ご機嫌いかがですか?」

看護師が朝の検温に来た。手慣れた様子で私の体温を測り、PCに記録した。あのPCには私の知らない、私の詳細が記載されているはずだ。なぜだか今日は頭が動きすぎる。

「おはよう。昨晩もぐっすり眠れたよ。あー、そろそろ外は夏かな」

「ええ、目の前に庭があるんですが、蝉がいよいよ鳴き始めました。梅雨も明けましたし、夏本番ですね」

「だからか分からないけど、どうも脚が痒くてね。左脚の脛辺りがずっとむずむずするんだけど、ギプスの上からでも搔いてくれないか?」

看護師は目線を私の足元に遣り、「あー、はい」と小さく返して、ベットの周りをソワソワと動いた。私の視界を出たり入ったりする。すると、彼女の腰が何かにドンっとぶつかり、音と同時に私を載せたベッドが少しだけ動いた。

「ごめんなさい、ちょっと先生呼んできますね。すぐに戻ってきます」

彼女は履物をパタパタと鳴らし、せわしなく部屋を出ていった。バタンと閉めた音の余韻が終わる前に、いかにもお医者様といった風貌の男性が顔を覗いてきた。彼は洗練されたデザインの眼鏡を弦の部分から上げ、人工灯を白い肌に反射させていた。

「おはようございます。脚が痒いんですか?」

私は「ええ」と答えると、先生は魚眼レンズの端の様に体を歪ませながら上半身を私の脚に正対した。

「ここですか?」

「もう少し上です」

「ここ?」

「あー、そこです。すっきりしました。ありがとうございます」

先生が自分の下半身を軸に、上半身を平行移動させながらにゅっと顔を私の顔に必要以上に近づけた。

「他に気になる場所はありますか?」

「いえ、これで今日も心地よく過ごせます」

先生は口角をにーっと吊り上げ、看護師と私から少し離れた場所で話し始めた。周辺視野で彼女は何度も頷いている様子だった。私のせいで怒られているのだろうか。痒かったのは確かだが、今度からはもう少し我慢しよう。そんな事を考えると尚更、痒くなってくる。右脚、左腕・・・。いやまた左脚かもしれない。鼻から深呼吸をし、心を鎮める努力をした。早く自由に体を動かしたい。今朝より強くなった生への欲求を外に広がっているであろう夏景色に重ねて、軽く眠りにつくことにした。

先生が近くにいて良かった。伊集院さんの担当は看護師になってまだ日の浅い私には耐えられないほどの重責でしかなかった。今日だって朝から憂鬱だった。プロ意識の欠如かもしれないが、視覚的にも慣れる気配はない。隣で目を瞑る患者を視界に入れない様にPCの看護記録に打ち込んだ。

『欠損した左脚に痒みの訴えあり。新藤Drが搔く素振りをすると鎮静化』

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