知ればなんでもないこと
父の長野県の生家に幼稚園の頃長い間滞在していたことがある。
祖母の看病が持ち回りで母にも回ってきたのである。
兄も小学校に上がる前だったと思う。
南信州の高くない山々に囲まれた父の実家の隣の家は大声をあげても聞こえないくらい離れていた。
そこまでは段のある畑が続いていた。
父の生家は今は建て替えられてしまっているが、木造の古くて大きな家屋だった。
玄関はセメントではない当時の農家ならではの本当の三和土(たたき)であった。
その広さは社宅暮らしの私の子ども心にも違和感を感じた。
雨の日にはそこで農作業の準備も出来るし、少し前まで農耕用の牛が飼われていた。
トイレが家の中に無いのにも驚き、さらには夜に外灯があるわけでもなく、当然汲み取りのトイレである。
恐ろしくて夜一人で行くことなど当たり前に不可能であった。
ただ、自然は素晴らしかった。
トイレに行く途中母と見上げた夜空にはうるさいほどに星がまたたき、天の河が横たわり、ほうき星が上からも下からも右から左からも流れていた。
人工衛星まで肉眼で見ることが出来た。
日中は近くの小川で沢蟹を見つけ、ゲンゴロウやタガメを捕まえ、畑や庭ではトンボを素手で捕まえることができた。
母は祖母の看病で大変だったろうが私と兄も日中は忙しかった。
だから夜はぐっすり寝た。
そしてその良眠のためからか夜中に目がさめることがあった。
ある夜どこかから人の話し声が聞こえた。
不気味であった。
とても近くで聞こえるのである。
我慢してそのまま眠り朝を迎えた。なぜかその日は母には話さなかった。
押入れに誰かが入っているような気がしたのだ。
一人で押入れの中を探ってみたかったのである。
田舎の押入れは大きく私の体はまだ小さかった。
押入れの奥にもしかしたら違う世界への入り口があるんじゃないかと思った。
たくさんの布団を押しのけて手探りで先に進むと奥には引戸があったのである。
思った通りの展開で胸をドキドキさせながら戸を引くと、そこには見覚えのある伯父さんたちの部屋があった。
なんのことはなかった。
押入れを部屋の仕切りにしてどちらの部屋からも布団が出し入れできるようになっていたのだ。
日中は片付けられた布団が防音壁になる。
夜はそれが無くなるので伯父さんたちの声がよく聞こえたのであった。
私の探検は出だしでくじけてしまった。
C.S.ルイスのナルニア国物語『ライオンと魔女』を読んだのはその数年後であった。
衣装部屋に潜り込んでナルニア国への入口を見つけた主人公をその時の自分に投影してドキドキしながら読んだことを思い出した。
コーヒーを飲みながら、ボーッとしている時間に時々こんななんでもないことを思い出したりする。
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