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日記のような、びぼーろくのような(2023.3.22 京都大原野でWBCを観戦した日)

京都大原野にも春爛漫の日がやって来ていた。昨日、仕事を終え放置竹林整備のNPO法人事務所「京都・竹・環境流域ネット」まで行った。最寄り駅の阪急洛西口駅からレンタサイクルに乗るが京都西山に向かう空気にはもう冬の居残りを感じることは無かった。枯れていた草木や畑には新しい緑と赤・黄・白とやって来た春を喜ぶ素直な息吹があふれている。桜の蕾も弾けんばかりに膨らみ、チラホラと我先にと開きかける悪戯坊主もいる。もう誰も止めることの出来ない春が堰を切っていた。

事務所に着くといつもと様相が違った。竹伐り衆は早くも事務所に帰っており、「おっ、宮島君、そこに座れ」と、大画面テレビの前に座らさせられた。WBCが始まっていた。野球に詳しい竹伐り翁が私にその都度説明してくれる。皆若い頃には野球小僧だったのだろう。「今日は休みにしようと思ったんだがな、、」と理事長夫妻もテレビにかじりついていた。

野球のルールも知らない私にも試合前の大谷のロッカールームでの気合の入った言葉には感じ入るものがあった。「憧れをやめましょう。憧れたら越えれない。今日一日は勝つことだけを考えましょう。」本場アメリカ相手に戦い、野球少年だった彼らにアメリカのスター選手への憧れが無いわけはないであろう。でも気が付けば同じ土俵に登っていたのだ。ならばこれは何が何でも勝つしかない。私はそんな気迫に胸を熱くし、ゼネコン時代に営業マンとして駆け出していた頃を思い出していた。

昭和のあのバブルに差しかかる頃に私は営業に希望を出して転属した。まだ高度成長期の残波を感じる頃であった。多くのゼネコンはそれまでの土木主体の公共工事から民間主体になる生産施設への設備投資やデベロッパーの住宅開発に触手を向け始めていた。それまでの話し合いで受注が決まっていく旧態依然としたやり方から知恵を使っての本当の営業に変わりつつある時代であった。そしてどのゼネコンも若い営業マンを育て始めていたのである。

先輩方が定石の無い営業のなかで他社と戦い、億単位、十億単位、百億の仕事を受注して来るのが信じられなかった。「俺にはあんな事絶対出来ない」と、諦め悩む時期があった。そんな時にある上司に言われたのである。「生涯賃金を考えたことがあるか。仕事一つ取ればお前ひとりの生涯賃金くらい出て来る。だから気にせず勉強しろ。遊べ。」と。
分かり易い、腑に落ちる言葉だったのである。
それから10年ほど過ぎ、以前は神のように思えていた先輩方が相変わらず同じやり方しかせず利益率の低い仕事を取ってくるのを見ていて「なんだか小さく見えるなぁ」ってことをまたその上司の前で漏らしたのである。
上司は「お前が成長したんだよ」と言ってくれた。
これもなんとも分かり易い言葉だったのである。

大谷があの若さであの言葉を発するには才能も、努力に裏打ちされた実力もあるだろうが、環境や私たちの知らない人間がいるのかも知れない。この先どんな人間に成長していくのであろうか。楽しみである。

理事長と4月に長野県南信地方まで竹の打合せに行く話を少しだけして事務所を出た。京都大原野の空気はさらに春を帯びていた。シャツ一枚でも陽射しの暖かさは私に冷たさを感じさせなかった。
大阪駅前ビルで兄貴の面会時の愛知行きの新幹線のチケットをディスカウントショップで買った。
そして、いつもの立ち飲み屋でビール一本、酒一合を飲んで私の一日は終わった。


どの店でも当たり外れの少ない厚揚げ


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