日記のような、びぼーろくのような(2023.4.06 竹の旅・付録編 遠い記憶の彼方の父の実家)
NPO法人京都発・竹・環境流域ネット(通称:竹ネット)の仕事で長野県伊那市まで来ています。こちらの本題はまとめて日曜日に記事としたいと思います。
伊那市は父の実家長野県の寒村に遠くない場所です。中央道を走り途中その実家近くを横目でながめながら通過しました。父はずっと実家を愛していたようです。三男坊の父は中学を卒業して飯田市内の電機機器の修理店で働いて名古屋に移り、その後、高度成長の猛々しいなかゼネコンに就職して電気技術者として職務を全うしました。日本国内のみならず東南アジアの各国、中国、アメリカとずいぶんたくさんの現場を渡り歩きました。そして、居は愛知県豊川市でした。父の実家まで自動車で3時間はかかりません。定年後はよく実家まで行っていたようです。長兄や親戚がいて、甥っ子たちが可愛かったようです。私は高校卒業後2年間豊橋市の魚市場で働き、それから上京して大学での勉学はそっちのけで合気道に明け暮れました。その頃父は日本に戻りやっと愛知の自宅に腰を据えました。
ですから私は父の晩年までほとんどすれ違って生きていたのです。父の実家の事も知るのはまだ幼稚園に上がる前に母が祖母の看病をしていた数か月の記憶のみです。その時の印象があまりに強くて近くには寄りたいと思う場所ではありませんでした。自然の中での生活に不満や不安を感じたわけではありません。母は自身が生まれてすぐに実母を亡くしています。母は義理の母を実母のように慕い尽くしていたようです。私の記憶がまだおぼろげな頃、祖母は一人で飯田線に乗って豊川の社宅まで泊りがけでよく遊びに来ていました。大変居心地が良かったと言ってたそうです。ですから母の祖母の看病は三男坊の嫁としての義務感は薄かっただろうと思います。そんな母の看病を祖母が一番喜んでいたことでしょう。
伯父伯母たちは祖母の世話から手が離れて春の農繫期を自在に時間を使うことが出来て重宝だったのだと思います。
なのに私はそこでひどく違和感を感じていたのです。歓迎されていない何かを感じていたのです。そんなわだかまりをもう60年近くも抱えながら生きて来たことを不思議に思いました。
今となっては想像しかありません。生まれて5年も経たない子どもが感じた違和感が何であったのか。その頃私の知る数少ない大人である両親と違う何かをそこで住む人たちに感じていた違和感が何であったのかを。
私の知る長野は山の中、緑に囲まれた風光明媚と言う表現が一番合った土地かも知れません。この時期の緑は本当に清々しいものです。私の表現力を越えた緑には寒い冬を乗り越えた深緑や緑のまだ色濃くない新緑の黄緑や緑に変わりゆく赤が、桜や桃、他の名前も知らない花々とパッチワークを作り上げていました。
しかしこの美しさは有限です。この後には一様の緑ばかりにその様相は塗り替えられるのです。寒い寒い冬を忘れた頃にはこれでもかこれでもかと倒れてしまいそうな暑さがやってきます。それでも樹々は足を生やしてその場所から逃げ出すわけにはいきません。
その事に気づいた時に「ああ、これが伯父伯母たちの気持ちかも知れない」と思ったのです。昔の日本の家、農家の長男として生まれた宿命、断ち切ることの出来ない地縁がそこにはあったのではないかと思ったのです。末っ子の父には継ぐもの、引き継げるものは何もありませんでしたが自由がありました。思うように描ける可能性がありました。そんな父や母に嫉妬や羨望のようなものがあったのかも知れません。
これは私の勝手な想像です。でも私が伯父の立場であるならばそんな因習を継ぎたくも継がせたくもなく、私の代で「解散!」と宣言して自由に生きていたかも知れません。
想像で物を言うのは簡単です。真実は小説より奇なるもの、もっと不可思議な理由があったのかも知れません。でも山深い自然の息吹しか語りかけてくる者がいない、そんな場所で生活すればご理解頂けるかも知れません。
私には水木しげるが描いた妖怪「こだま」、次の代わりの人間が現れるまで根と変わった足でその地に縛り付けられる「こだま」が頭から離れないのです。
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