とうもろこしのヒゲと母ハルヱの生き方
母ハルヱは人が良かった。
決して優しくはなくどちらかといえば厳しく、はっきり物を言う人だった。
昨年も記事に書いたのだが、夏場にトウモロコシのひげを見ると思い出すことがある。
愛知県豊川市のはずれの町に住んでいた頃である。周りは空き地が多く古くからある大きな養鶏場があり、梅雨時期には風向きで鼻が曲がるほどの臭いが漂ってきた。
今ではそこに建売住宅が立ち並び、そんな面影は全く無い。
誰もが好んで住みたくない場所に広い土地を買い求め、広い庭と家庭菜園が兄のためになると思ったそうである。
農家出身の両親の菜園は立派だった。夏場に家でトウモロコシが出来るのが私には嬉しかった。
近くに在日朝鮮人のご家族が住んでいた。
そこの80歳はとうに過ぎたおばあちゃんが母が菜園にいる時に寄って来た。「ねえさん、そのヒゲを分けてくれないか」と。
腎臓の悪いおばあちゃんは煎じて飲むんだと言う。
母はニコニコ笑ってまるまる太ったトウモロコシを三本渡した。
そこからの付き合いだった。
私はそのあと家を出たが、大学時代も、就職してからも帰ると必ず美味しいキムチが食卓に上がった。
そのおばあちゃんが持って来てくれたのだ。
まだ、トウモロコシのひげ茶なんて見かける事はなかったが、おばあちゃんは母から毎年トウモロコシをもらい煎じたお茶で腎臓病を直したそうだ。
そして、おばあちゃんは百歳近くまで生きたそうだ。
母が認知症になっても冷蔵庫にキムチがあった。
おばあちゃんが亡くなってからも、ご家族が届けてくれたそうである。
私の友人たちから母は人気があった。
私が居なくても私を訪ねてくる友人を家に上げて、よく楽しそうに話をしていた。
しかも二人でビールを飲みながらだ。
母はいつも未成年の友人を相手にビールを飲んでいた。
「私の前ならいいわよ」と、酒もたばこも公認であった。
母が認知症になって初めて知った事もあった。
私が小学生の頃、母の下にいた若い看護師を夜勤明けに金を渡して青森の実家まで帰したそうだ。
ひどいDVに耐えながら看護師を続けていた彼女を黙って見ていることが出来なかったのである。
後日病院まで訪ねて来たその旦那とは母が渡り合い離婚までさせたと後日母の友人から聞いた。
母のアルツハイマーはピークに差しかかり、私は月2回金曜日の夜に大阪から新幹線に乗って帰っていた。
そんなある晩勝手口に青森県むつ産のホタテ貝のトロ箱があった。中には腐ったホタテ貝があった。私はもしやと思い、送り状の番号に電話をしてみた。
「愛知の宮島と申しますが、」と始めると電話の女性は「ひでき君なの」と、私の事を知っていた。よく家まで遊びに来ていたそうで事情を話す前に「毎年すぐに電話をくれるのに、おかしいと思ってたの」と、泣き崩れしばらく話は出来なかった。
母の手引きで夜逃げならぬ、朝逃げをした女性だったのである。
とにかく何かをやってもやったと言わない人であった。
毎年トウモロコシの皮をむくと母の事を思い出す。
私の記憶はだんだん薄れ、私はそのうちあの世に行く。
母、ハルヱの事をこの note に残せてよかったと思っている。
そして、母の話をここで読んでくれる人がいることに心から感謝している。