日記のような、びぼーろくのような(2023.1.18京都大原野の早い朝)
庭の椿の落花音で目を覚まし、まだ明けぬ闇の朝を独り歩く。
こんな朝が好きである。
寂しく悲しくなるような迫る夕闇を背に歩くより、
こんな朝が好きである。
私の吐息は白く型取られ、朝の冷気と擦れる音が聞こえてくる。
こんな朝が好きである。
すべての存在を押しつぶしてしまような夜のしじまは私にさよならと言ってくる。
またすぐ来るくせに言ってくる。
お前が友だちになりたいと思ってるのは知っている。
でも私にそれは出来ないんだよ。
もうずいぶん前に分かれは告げたはずだ。
もう、私について来るな。
これまで幾つもの早い朝をひとり歩いて来た。
始発電車で会社に向かい、終電で帰る日々。
まだ人の寝静まる朝近い夜に車を両親、兄の待つ家に向けて走らせた日々。
早い朝は誰ともしゃべる必要が無い。
朝の空気の匂いをかぎながらその季節を思い、そんな朝の空気は過去を振り返り唇を嚙むことも許してくれる。
早い朝はそのままの私をいつも受け入れてくれたのである。
昨日は仕事は休み、京都大原野の放置竹林整備のNPO事務所まで行った。
あまり寒くない今年の冬にホッとする。
阪急電車洛西口駅から電動アシストのレンタサイクルで約30分。
もう明けきった京都西山、大原野は清々しい朝を迎えていた。
寒の内の桜の蕾はしっかり形を作り来たるべき春に備えていた。
もうすぐ節分、この日を境に急に季節が変わるわけではない。もうすでに新しい季節に向けて自然は動き出している。何があろうと変わらぬ前進を続けている。人間だけである。我が事だけを大事にし、開く口からは綺麗な汚い嘘しか出てこない。そして、ぬくぬくと己が臭いに包まれて立ち止まることを自身だけに許すのだ。
でも、早い朝はそんなことを許してくれない。
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