春は餃子
「春は あけぼの」
私は年中朝がいい。その時期、季節の朝がいい。
まだ多くの人たちが口にしてない朝の空気が好きである。
子どもの頃から寝ない子だと母に言われた。
身体に良くはないだろうが「遅寝早起き」が得意だった。
なんだか寝る時間がもったいなかった。
でも、布団に入ると同時に寝ることができた。
そしてそれは今も続く。
そしてそして、朝は早くに眼が覚める。
それも今もなお続く。
両親より早く起きて飼い犬を引きつれて近所の小川を散歩しながら煙草を吸うのが日課の高校時代だった。
私の故郷、愛知県豊橋市はキャベツの産地である。
いつも大きなキャベツが台所にあった。
八百屋やスーパーで買わなくとも、近所の方や両親の知人が運んできてくれるのであった。
母が作ったロールキャベツがあまり美味くなかった。
キャベツの時期がやってくると食卓にその姿をおひたしに変えたのがいつも鎮座していた。
振りかけてあった鯖節が美味くない。
悪いがこれも好みじゃなかった。
でも、ニンニクの入らない総菜屋に並ぶような餃子は好きだった。
これが時々私が目指す「おふくろの味」なのかも知れない。
両親、兄が弱りゆき、大阪から新幹線に飛び乗って三人の生存確認に帰った時にはいつもどこかからやってくるキャベツたちと戦った。
千切り、コールスロー、ピクルス、ロールキャベツ、焼きそば、野菜炒め、回鍋肉もどき、そして餃子、何を作っても母は「美味しい」と言って食べてくれた。
認知症の進んでいた母はいつも「ひできはどうしてこんなに料理が出来るの」と聞いてきたが、「あなたの料理が理由です」とはもちろん言ったことは無い。
反面教師の母の料理であったが、時間の無いなか、看護師仲間にレシピを聞いて苦手な料理をしていたのを知っていた。
私はロールキャベツもおひたしももちろん口にしていた。
母が時間の無いなか作る餃子を手伝って包んだ。
キャベツを刻むのも好きだった。
今考えればそれは幸せの時間、きっと母もそう感じていたに違いない。
母の料理の腕なのか母の餃子のキャベツたちは今のキャベツよりももっと味の濃いキャベツだったように記憶する。
父の最期を看取るために母をグループホームに送らねばならなかった。
兄には申し訳なかったが静岡にある神経医療センターに長期で面倒をみてもらった。
母を車でグループホームに送った日は雨降りだったのをおぼえている。
二人で食おうと弁当を作った。
前の日に山ほど包んでいた餃子を焼いて弁当に詰めた。
雨降りじゃ仕方なく、ショッピングセンターの広い駐車場の隅っこで弁当を開いた。
でも母は何かを悟っていたのであろう。
ずっとイライラしていた母は私の手の弁当を「いらない」と払いのけ、車中にぶちまけてしまった。
足もとに転がった餃子が寂し気に見えた。
それが母との別れである。
心残りは山ほどある。
出来ることならば春キャベツで作った餃子を食べさせてやりたかった。
毎年この時期になると思い出す餃子とキャベツの思い出である。
餃子ラブ、私には「春は餃子」の思い出なのである。