真夏に思い出す夏の思い出
少し早い夏休みのような生活を送っています。
かと言いつつも、貧乏人に暇を与えてくれないのが世の常です。自転車で八尾から大阪市内までウロウロしている間に久しぶりに陽に焼けていました。わりとデリケートな肌を持っており、もう若くはない昨今は夏場でもなるべく長袖のシャツを着てお肌のケアに努めていました。久しぶりに焼けた肌を見て、パリ五輪の水泳を見て、子どもの頃故郷愛知県豊川市から長野に向かう途中の冷たい川で泳いだことを思い出しました。
一級河川豊川(とよがわ)の上流、長篠の古戦場の近くです。曲がりくねる川の深淵には流れが停滞していて非常に水温が低くなっている場所があります。その層に入り込むと「ヤバい」って感覚に陥ります。心停止して死んだ子がいると聞かされている場所です。そんなことを瞬間に思い出し、なんだかその子に出会うような気がしてすぐに水面に向けて泳ぎます。
私たちはまあまあ田舎の子どもでした。東海自然歩道となっていた近くの山々をゴムのサンダルで走り回ればハイカーたちに「天狗の子」だと言われ、この川底に潜ると「河童」だと言われました。誰に教えられたわけでもないのですが、平泳ぎと潜りは自然と身に付いていました。
この得体の知れない川底よりも太平洋の白浜の先の遊泳禁止区域のほうが実は怖いです。なるほど、禁止区域になるわけだと思い知る経験を何度かしました。一見遠浅の白浜を沖に向かって泳ぎ、途中足が着くのを確認しながら進むのですが急に着かなくなる場所があるんです。そこから先には怖くて行ったことがありません。
川より広い海にはきっと私が知らない生物がいて、その先に行くと引き込まれるんじゃないかと思っていました。私にはその未知の生物のほうが溺れて死んでしまった子より怖かったのです。
夏にはいろいろ思い出します。ずいぶん前にこの note で記事にしましたが、水泳が少し出来たばかりに辛い思いをしたことがあります。
小学四年で豊川市から豊橋市の小学校に転向しました。夏休み明け、二学期からの登校でした。てんかんと知的障害を持つ一年上の兄とともに登校しました。体育の時間がいきなり水泳でした。当時豊川の小学校にはまだプールがありませんでした。私の我流は川の深淵と市民プールで鍛えられました。体育の授業で私の平泳ぎが一番で校内水泳大会のクラス代表選手にいきなり選ばれました。
でも嫌だったのです。人前に出るのも嫌ならば、私の水泳パンツは「赤」だったのです。回りの皆はスクール水着の「紺」、私は「赤」兄は「オレンジ」でした。これには母の深い(それほどではないが)考えがあったのです。兄に万が一のことがあったらすぐにプールの底に沈んだ兄を一目で視認できると。そんな母に「新しいパンツを買ってくれ」とは言えず、それより先に母は校長を持論でねじ伏せて、私と兄の派手な色のパンツは認められてしまったのです。
みんなの前に立つのが恥ずかしかったです。次の夏には紺のパンツを買ってもらい。真面目に泳ぐのは止めました。おとなしくジッとしたのです。
たったそれだけのひと夏の思い出です。
真っ黒に焼けた肌に真っ赤なパンツはあってるようで、今ならば「カッコイイじゃん」、そう思い喜んで大会に出たかも知れません。でも子どもの私にはそうはいかなかったのです。
毎年この時期にパンツの色まで鮮明に思い出す私の夏の思い出です。
普通の子どもだったなあ、と思い出す私の夏の思い出です。