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私の合気道との出会いは昭和56年(1981年)、大学の合気道部へ入部である。 西部池袋線江古田駅にある大学から、池袋の空手道場に通うつもりで上京していた。入学式のその日、私はその足で池袋のその空手団体の本部に申し込み書を持っていくつもりだった。 入学式の行われた講堂を出ると、たくさんの新入部員勧誘の出店が並んでいる。二年も魚市場で働きひねくれた二十歳の新入生にも学生服の勧誘が寄ってきた。 合気道部の内田先輩だった。全く興味のない私に特に合気道を勧めることなく昼飯を食いに
日曜日に合気道の所属会の年に一度の総会と新年会があった。 稽古を終えての冷たい夜道、誰も見向きもしない黒々した道頓堀川に向かって一人立ち、缶ビールを開けて会場に向かった。 この3年ほど、道頓堀の同じホテルで総会・新年会を行なっている。200人ほどの各道場の関係者を集め、予算も勘案しながらの会場設定にはご苦労があるだろうと主催者側に感謝する。 会場は以前の立食形式ではなく、中華の円卓で皆に席があった。久しぶりに見る顔も少なくないが、考えれば年末の演武大会で顔を合わせた連中が多
合気道の稽古をいつまで続けれるだろうかと思う。 私の師の享年は60歳だった。それは早い別れだった。私はその頃京都にいた。仕事の都合をつけて何度か師に会いに行った。ちょうど20年の生きて来た時間の差があり、親子の間でもなければ兄弟の間でもなく微妙な年齢の差であった。私たち同期3人は大学の4年間、厳しく教えを受けた。合気道はもとより、まだ20歳過ぎの若造の私たちの生活指導までしてくれた師であった。私にとって初めての強く尊敬する方との付き合いで、目上との接し方の多くを教えてくれた師
「年賀状辞めます」とメールで連絡が来た。この新年は親族のご不幸、その次からからは会社での個人情報の厳格化と、形骸化を理由にやめるということであった。もう10年も前にやめてしまっている私には何も言うことは無かったが、彼が送ってくれる写真の息子が可愛かったので実は楽しみにしていた。酒が好きなのは私と同じ、雰囲気が好きなのであろう。深酒して翌日の打合せも平気でキャンセルするいい加減な男と思っていたが、そんな時期を脱したのかも知れない。40歳前後で結婚し、40過ぎて一級建築士を取った
以前、ここで紹介した小学6年生だった彼は、今は晴れて目標の中学に入学して今しか享受できないピカピカの時間のなかを生きているそうである。 そして彼には弟がいる。二つ年下の小学5年生の弟がいる。毎週日曜日、この暑さのなか汗をびっしょりかき自転車を漕いでやって来る。何を思いこの道場にやって来るのか、聞いてもその返事をもらったことは無い。大人たちに混ざり一緒に稽古をしている。通常だと子どもと大人を分けて稽古させる道場が多いが、私はそんな必要は無いと思っている。もう高学年ともなれば、彼
また一人、自分の道を歩き始める。 合気道道場の六年生の彼、来年の中学受験を目指している。 小学二年で稽古を始めた。弟は幼稚園児だった。自分の父親より年上のオッサンばかりの私の道場に何が楽しいのか分からないが毎週末にやって来た。必ずお父さんかお母さんがついて来てくれた。本人以上にご両親も大変だったと思う。 中学受験はどうも親の押し付けじゃない。込み入ったことに首を突っ込まないから聞いたことはなかったが、どうも本人の自発らしい。合気道の稽古も続けたいと言っていたようだが、毎晩遅
合気道を40年以上続けてきた。欠かすことなく真面目に40年間稽古を積んできたわけではない。生活あっての合気道であり、仕事もあれば子育ての手伝いも、家族の介護・看病だってあった。でもまあまあ真面目に稽古を続けてきたつもりである。 若いうちは人を力で投げていた。二十歳までの2年間を魚市場で働き、毎日大将のセリ落とした自分の体重より重い冷凍マグロを、4つ割りに切るチェーンソーの台に一人で運びあげていた。毎日のトレーニングの成果もあって誰にも力で負けない自信はあった。 でも力では
前の晩に作ったポテトサラダ、黒胡椒がいつもより辛かった。 黒胡椒をミルで挽いて料理に使うなんて以前の私の生活にはあり得なかった。 いや、一般の日本人の家庭でミルとホールの黒胡椒を置くのはレアなことだったと思う。 そんなことを考えながらサンドイッチを頬張り、大学の一年先輩を思い出していた。 合気道部の一年上、年齢は私と同じだった。 なんだかズレた人だったが、悪い人じゃなかったから好きだった。 合気道にかけてはこの40年間で出会った稽古人のなかでも指折りに純粋な人だったと思う。
合気道の道場でお借りしているレンタルスタジオの一階にある石材屋さん。 ここの見かけと違う優しいご主人が養うメダカに挨拶して道場に上がるのが私のルーチンになっている。私が子どもの頃はまだ近所の小川でメダカを見ることが出来た。だから、なんとなく私にはメダカを自分の家で飼うって感覚にはならない。自然の中に在るもの、私たちが生きているのと同様にそこに生きているもの達だと思っていた。 ここにいる彼ら彼女らの世界は狭い。綺麗に掃除され、水草もあるものの、小さな小さな世界である。子どもの頃
昨日の大阪は朝の天気予報に反して夕方まで雨ふりだった。 朝仕事を終えて自宅に寄り、着替えて道着を持って合気道の稽古に向かった。空調の効くレンタルスタジオでの稽古であるが動けば汗をかく。いつもより汗をかく。かなり湿度が高いようだった。 阿倍野での稽古を終えて、また稽古、所属会の主席師範による稽古会が大阪市の体育館であった。大阪市の西側、安治川の河口あたり大阪港近くにある市立の体育館である。本来そこにはあり得ぬ緑を無理やり持ち込んだ公園の地下に体育館を埋め込んでいる。私はいつも
それは稽古の帰り道、 一人歩く夜道を誰かが背後から近づいていた。 いつもわかるのである。 そんな時は振り向いてはいけない。 そして、足元に目を向ければ黒い影が落ちていた。 今の若い稽古生たちに言っても自分の七、八の力を出すという事が難しいようである。 まずは自分の十の力を知らなければならない。 相手を投げるために十の力は使わない。 十ある力の七や八を使って人を投げるのだが、まずは自分の十の力を知らなければならないのである。 要は余力を残しておきたいのである。 そして、力は腕
金曜日、夜の合気道の稽古前から雨がパラパラ降りだした。まだスーツを着ていた頃、夕の雨はいやだった。出来れば手ぶらで飲みに出かけたかった。特に接待などあると自分以外のことに気がいってしまい、相手の傘を忘れることはないのだがよく自分の傘を店に寄付して帰った。 春雨、濡れて帰るのにもスーツや革靴はいただけない。現場で仕事してた頃には作業服。雨でも雪でも傘などさすことはなかった。 そんなことを考えながら稽古に向かった。 週末のこんなくつろぎタイムに稽古に出て来る皆さんには頭が下がる
見えそうで見えないもの 相当その気になって見ないと誰の目も案外節穴なのかも知れない。 社会人の合気道の稽古において技の習得は容易ではない。週一度きりの限られた時間においての稽古で、毎日稽古する者たちに劣らずついて行くためには節穴のなかにでもいいから意思のある目を持たねばならないのかも知れない。 残された時間が限られているのである。学生のようにだらだらと現を勘違いした終わりの定まらぬ時間の使い方は出来ない。技という技術の修得のために日々の鍛錬を積み重ねる確たる志を持って道場の
1930年(昭和5年)生まれの私の父はもちろん第二次世界大戦に従軍することは無かった。長兄は戦死している。私が会ったこともない伯父さんがこの世に居たことを不思議に思う時がある。 父は長野県の南、南信地方(なんしんちほう)と呼ばれる愛知県との県境に近い山中の農家の四男坊として育ち、中学を出て飯田市内の電気工事屋で働いたそうである。高度経済成長期の波に乗り、ゼネコンに入社し電気工事士として海外で長く働いた。 私が大学三年の時に父は一時帰国し、次プロジェクトのため東京で寝起きをして