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合気道と父
1930年(昭和5年)生まれの私の父はもちろん第二次世界大戦に従軍することは無かった。長兄は戦死している。私が会ったこともない伯父さんがこの世に居たことを不思議に思う時がある。
父は長野県の南、南信地方(なんしんちほう)と呼ばれる愛知県との県境に近い山中の農家の四男坊として育ち、中学を出て飯田市内の電気工事屋で働いたそうである。高度経済成長期の波に乗り、ゼネコンに入社し電気工事士として海外で長く働いた。
私が大学三年の時に父は一時帰国し、次プロジェクトのため東京で寝起きをしていた。ちょうどその時である。私は大学合気道部の監督との連絡用に電話を引くように先輩から命令されていた。当時権利金が10万円必要だった。その時の仕送りが5万円、下宿の家賃が1万5千円だったから学生にとっては法外の金額だったのである。仕方なく私は築地の青果卸で一晩1万円という仕事を見つけて10日間働いた。やれやれと思っていると、学友会の先輩が大手電機メーカーに就職が決まり、しばらく大阪配属とのこと一年間電話を貸してもらえることとなった。そしてまたやれやれとホッとし、後輩を連れて二晩で10万円を使い切ってしまった。そしてまたまたその翌日にやっぱり東京勤務になったから白紙と、その先輩から告げられたのだ。
私はまた仕方なく当時まだあった電電公社の下請けの警備会社のアルバイトをした。寒い夜に工事現場で一晩立ってこれも1万円だった。おぼえているのは日比谷公園前の道路の工事現場、JR新小岩駅前の道路工事だった。
このアルバイト、工事が早く終わっても1万円という契約だった。そしていいのか悪いのか、この新小岩駅前の仕事は終電と共に二度とも終わったのだった。時間単価にしたらよかったのだが、下宿に帰れない。一度目は深夜喫茶で始発まで過ごしたが、二度目は無性に帰って布団で寝たかった。少し離れた向こうにある新小岩駅のホームの電気がポツポツと消えるのが合図のように「お疲れさまでした~!」の声がかかった。想像はしていたが気持ちは暗くなり、ヘルメットを片手に総武線沿いをトボトボと歩いた。その途中で父が江戸川橋の寮にいるのを思い出したのである。寝かしてもらおうと思った。一度だけ行ったことのあったその寮を目指して道路標識を見ながら歩いた。早朝に近い深夜に二階だった父の部屋めがけて小石を投げた。何度か続けるうちにガラガラと窓が開き「誰だ!」と父の声。「オレオレ、バイト早く終わって帰れないから泊めてくれ」というとスッと姿が消えた、と思ったら再び姿が現われ紙つぶてを投げて来た。「それで帰れ!」ガラガラ、ピシャ!
紙つぶては一万円札だった。タクシーに乗れという意味だったそうだがもちろん歩いて帰った。
まぁ、それに類することが多かったから私は父からは全く信用の無い息子だった。
合気道のことなど話したことも無かった。でも学園祭の演武会に父は来てくれていたのである。そのことは父が他界する前に聞いた。写真はその時のものである。
晩年はアルツハイマーの母、障害者の兄の面倒をひとりで看て自身の肝炎もひどく進行してしまい寝たきりになった父には私しか頼る人間がいなかった。兄が静岡の病院に入院したので私が静岡に行き一日居ないと「ずっと探してましたよ」と看護師さんに言われた。
介護休職が制度としてスタートしたばかりの時期、三人の介護、看病のために愛知に単身乗り込んだ。「これもまた人生哉」と悟りを開けそうな三ヶ月間であった。
大なり小なり生涯において誰にでもついて来ることである。自身の病気もそのうちに入るかも知れない。全ては前向きに、プラスにとらえるべきであろう。どうせ自分の時間を使うならば、あとから悔やみたくない。父は最後に私にそんなことを教えていってくれたように思う。
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