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教養について、文学部の所在

*少年犯罪の傾向の記事が見つからずすみません。興味がある人は岩永誠教授とお調べください

教養についてある程度考えがまとまったので、書かせていただく。

以前、文学部がいらないのではないか、という風潮があった。

記事は見つからなかったが、首都大学東京になる際、文学部は消えたとのこと。

作家でもあった石原慎太郎元都知事が、文学部いらないと言って、文学部は消えたとか。ちなみに現在の東京都立大学は文学部が復活した。


詳しくはこれをみてください。

最近では、菅首相になってすぐの頃だったか、学術会議の6人任命拒否の際も、文系ないし人文学はいらない分野だとなじられた。

文学部の人間としては、誠に遺憾である。しかし同時に仕方ないと言う意識もある。

文学部の必要性を述べるとき、まず教養、リベラルアーツがあげられる。

リベラルアーツとは、解放されるための技術というような古代ギリシャの考え方によるものである。

いやしかし、いかに教養だ!リベラルアーツだ!と言っても、普通通じないだろうと思う。だからなんだという話である。

前置きが長くなったが、まず、教養についての解釈を述べ、次に文学部とは何か、最後に、教養との付き合い方について述べる。


1.教養とは

 教養とは端的にいうと価値観の形成を促すものである。

 おそらく筑波大学の入試問題で見たのだが、インドかどこかでの植民地で、とある現地人の処刑に立ち会ったイギリス人の話が出てきた。

 処刑台の前には水溜まりがあった。処刑人は、その水溜まりを避けて進んだ。
その光景を見たイギリス人は驚いた。この処刑人は死が迫っているというのに、避けた処刑人は、ある1人の人間として当然のことを行なったからだ。

 処刑人は死を目の前にしても1人の人間として生を重ね、見ていたイギリス人は、現地人の人も1人の人だと認識した。

というような内容だった気がする。

教養とは生きていると必ず発生するものである。現在のコロナ禍のような大きな事件においても、色はすが百円で売ってたというような小さなことでも、私たちの血肉になる。これが教養だと私は認識した。

2.文学部の位置付け

 文学部は誤解のないように言っておくと、文学を学ぶだけの学部ではない。

 文学部人文学科という名前から分かる通り、人文科学の領域に位置する学部である。

 ではそもそも人文科学とは何かという話になる。

 簡単に私なりの考えを述べると、

 学問は3つの領域に大別される。

 人文科学、社会科学、自然科学の3つである。

 それぞれに共通していることは、真理を追い求めるというものだ。これは、学問の形成から見ると明らかである。

 学問は、いわゆる哲学から始まったといえる。もちろん数の数え方、計算など言われるものはさておき、ある程度そうだといえると思う。

 他のポリスより優れたものをという競争の中で発展したと言われる哲学。

 哲学は、人の意識を様々な方向へ向けさせた。

 例えばアルケー(万物の根源)などがそうだ。タレスは水、ピタゴラスは数、ヘラクレイトスはそもそも万物は流転するとした。

 これらの偉人は自然科学の始まりに位置する哲学者である。

 このことから、哲学、考えることが学問の根本にあることは容易に分かるだろう。

 話が逸れてしまった。

 詰まるところ、人文科学は、人がものに目を向け思考することが中心にあるものだと私は考えている。

 そして、文学部はそういう学部であるといえる。

 このように目を向けるものこそが、上で述べた通り教養となるものである。

 だからこそ、文学部の必要性を述べるとき、教養、リベラルアーツという言葉が出てくるのだと考える。

3.教養との付き合い方、学校の存在意義を含めて

 教養は、先に述べた通り、価値観を形成するためのものである。ただし、忘れてはならないものがある。価値観を形成するほどのことを自分で得る必要があるということだ。

 もちろん些細なものでも、構わないと先ほど書いたが、自分のものにならなければ教養とはいえないのではないかということである。

 だからこそ、学校の在り方に疑問を覚える。

 学校は、塾やリモートにより必要ないのでは在り方を意識しなければならなくなった。

 私は学校は必要だと考える。なぜならば、教養を育む場所でこれ以上ない場所であると考えるからだ。

 まず、学校は、多くの同世代の子供が集まるという特異な空間である。

 ここで子供たちは、行動し衝突を繰り返すことで、人を殴ってはいけない、嫌いの人とはどのように付き合っていくか、というように他人を意識するようになる。

 そうして、人は他人という存在を知り、自己愛が他人に向けられるようになる。

 これを脱中心化という。

 しかし、最近の学校は違う。衝突を事前に抑える方向に移動している。子供たちは行動する前に知識として、殴るのはダメだとか、人との付き合い方を習う。子供は人に害する行為は、知識によって禁止される。

 ここには大きな問題があるとされている。

 知識だけの禁止は、すぐに崩壊してしまうのである。

 ある子供が人を殴った。

 しかし、相手の子は、殴り返してこない。殴ってはいけないからだ。

 そのある子供は、殴るという行為は、ストレス発散のために良い行為になるという認識になる。

 これは昨今の未成年犯罪の原因の一端となっている。

 もちろんこれは1例である。

 私がここで示したいのは、自分のものにできていないことが問題なのではないかということだ。知識と実体験は別物である。

 自分のものにするには実際にやってみるのが良い。習うより慣れろである。

 そこで私が良いと思うのが、名前は忘れてしまったのだが、学校で行うのは、議論や総合課題にして、現在学校でやっているのを家でやってくるようにするというものだ。わからないところがあれば自分で調べ考える。そして授業最初に知識の確認の小テストを行い。それと授業態度で成績をつける。

 このように、行動させ、衝突させることで、自身の力になるよう促すべきではないか、それこそが教養だと私は思う。

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