アリストテレス哲学~エネルゲイアについて~『アリスとテレスのまぼろし工場』を添えて
先日公開された脚本・岡田麿里、制作・MAPPAのオリジナルアニメ映画『アリスとテレスのまぼろし工場』。本稿ではこのタイトルからアリストテレスという古代ギリシアの哲学者の思想がどのように援用されているか見ていきたい。純粋な感想記事はこちら
『アリスとテレスのまぼろし工場』というタイトルからアリストテレスという偉大な古代ギリシアの哲学者との関係性が気になった。作中でそれらしき言及があったのは正宗の父親が読んでいた少年漫画週刊誌の見開きで「哲学奥義!エネルゲイア!」と叫ぶキャラがいたことくらいだ。しかしアリスとテレスという題名からなんの意味もなくアリストテレス哲学の用語が登場するわけはないだろう。すなわち、このエネルゲイアという用語にこそ本作の伝えたいことがあるのではないかと考えた。そこで本稿はこのエネルゲイアという哲学用語を解説したいと思う。
本編の考察もしようと思ったが、こういう記事でガッツリネタバレになるのもなんか違うかなと思ったので考察はやめます。かわりにエネルゲイアという用語がどのように本編にかかってくるのか?について添える程度に解説する。本編を観た人が少しでも納得いけば幸いだ。
エネルゲイアとは?
エネルゲイアとはふつう現実態と訳され、可能態(デュナミス)と対で語られるアリストテレス哲学の観念の一つで、いわゆる英語のエネルギー(energy)と語源を同じ(*1)にする。
形相/質料
エネルゲイアという観念は「質料(ヒュレー)と形相(エイドス)」というもう一つのアリストテレス哲学における重要な観念と密接に関係している。形相(エイドス)とはもともとは姿・形(*2)という意味の古代ギリシア語であり、質料(ヒュレー)は素材という意味である。また、形相とは本質の認識とも解される。この形相/質料の考え方はよく夏目漱石の『夢十夜』の一節を使って説明される(*3)。以下は『夢十夜』第六夜の抜粋だ。ただし太字部分は私が勝手につけたものである。
ここで私が太字にした部分が形相/質料の説明に使われる事が多い箇所だ。実際、質料とはここでは運慶が掘っている木そのものであり、形相とは運慶が掘り出している仁王の形のことだ。すなわちこの素材(掘られている木)は決まった形相(仁王像のカタチ)になるために生まれてきているといった考え方である。それだけ聞くとトンデモ科学のようだが、実際にあなたの回りを見てほしい。ここではあなたは木製のテーブルと木製の椅子に座っているとしよう。その眼の前のテーブルは色々な木材の中から最もテーブルに適した形をしていたから選ばれたのだし、その椅子もやっぱり最も椅子の各部品に適していたものを集めてできたとは考えられないだろうか?それを言い換えればある素材(質料)は決まった形に仕上げられるためにあるとも言えるだろう。現代では身の回りのものにも合金製やプラスチックのような形を恣意的に変えられるものが多くなったため自覚しにくいが、根本的には同じことである。*4
さて、エネルゲイアの話に戻ろう。この形相/質料の話でいえば、エネルゲイアとは質料というある形を取り得る可能性をもっているもの(可能態)が実際に形相をとって現実化したもの(現実態)になるということだ。上でみた『夢十夜』の話で言えば、運慶の掘っている木は掘られる前から仁王になる可能性を秘めている。それが運慶が掘ることで実際に立派な仁王の形をとりだす(現実化する)。この木から仁王になっていく変化こそエネルゲイアと呼ばれるものだ。
エネルゲイアと『アリスとテレスのまぼろし工場』の世界の関係
ここまでで、アリストテレス哲学においてエネルゲイアとは一種の変化(*5)を意味することがわかった。ではここから、『アリスとテレスのまぼろし工場』についてネタバレにならない範囲で解説を添えて終わろう。
『アリスとテレスのまぼろし工場』:ある日突然、不思議な力で時間の流れが停止してしまったみふせという町が舞台。みふせの町の人々は、いつかもとの世界に戻れると信じ、日常生活や心のあり方まで変化しないように過ごしていた。そんな変わらぬ日々に退屈している少年少女たちのお話。
この物語は人生のある瞬間を切り取ることで、その時点で現実化していない可能性の芽に焦点を当てているのだと考えた。舞台装置としての変化のない町というものが用意されることで、変化しない世界の中で変化するもの=心の変化であることが浮き彫りになる効果がある。そして心情の変化によって様々な自分に眠っていた可能性が現実化していく、そういう物語なのだろう。
ここまでみてきたエネルゲイアの説明は無生物のことばかりであった。アリストテレス哲学において心は「プシュケー(魂)」と呼ばれる。そしてこの心とは「可能態において生命を持つ自然的物体の形相」(『霊魂論』,61-62)と理解される。
言い換えれば、心とは、可能性を持った「生きているもの」がもつ形相(本質)であり、心の動きが現実化することが生きているものにとってのエネルゲイアなのである。
注釈*
*1;英語のenergyは古代ギリシア語で「仕事」や「作品」を意味するεργονが語源。ενεργειαは接頭辞εν-をεργονに付け加えたενεργονを派生させた用語である。(気息記号の入力方法が分からなかったのでアクセントと気息記号は省きます)
*2;古代ギリシア語でのειδοςはもともと見るという意味のοραωという動詞のアオリスト形(過去形の一種)ειδονが名詞化したもの。またειδονの不定詞はιδεινとなり、これが名詞になったものがあのプラトン哲学で出てくる概念のιδεαである。またプラトンはこのイデアとほとんど同じ意味でエイドスという単語を使っていた。
*3;実際この話はアリストテレスの『形而上学』において「『たとえば木材のうちにヘルメス[の像]がある』(『形而上学』第九巻第六章)。彫刻家はヘルメスの姿に沿って、それを掘りだすだけである。」(熊野純彦,『西洋哲学史 古代から中世へ』,p.107)という類似した話があり、夏目漱石がそれを参考にしたのであろう。
*4;私が最初に形相/質料の説明に木製家具や仁王像の説明をされた時に思った疑問が「それってプラスチックや金属だとどうなるの?」だった。例えば3Dプリンターで立体物を印刷する際に形はすべてモデリングした者によるのであって、どんな3Dプリンター用レジンがいいかというのはあまり関係ないだろう。
実際この説明では木という素材の一部分がテーブルに向いていたり手すりに向いていたりするというように一対一の対応をしているように考えてしまうと思う。しかし、アリストテレスの形相/質料の関係はもう少し広い射程を持っている。
例えば、形相(カタチ)としてコップ型というものを考えてみよう。このコップ型というカタチの材質が何であるか?それは木であったりプラスチックであったり、ガラスであったりさまざまだ。つまり形相は質料と一対一対応はしていない。しかし同時に質料は形相に制限をかけることもできる。例えば、加工が困難な天然ダイヤモンド単体からコップを作るのは物理的に不可能だろう。そしてこれが質料がもつ可能性の話にもつながる。質料(素材)はソレが取り得るカタチになることはできる、しかし、質料に不可能なカタチにはなることができない。テーブルに向いていない木はテーブルにはならない。したがって、テーブルになった木はテーブルに向いていた木なのだ。
*5;アリストテレスは変化のことをキネーシス(運動)とも呼んでいるが、キネーシスはエネルゲイア(活動)と比較されやすい概念でもある。デュナミス(可能態)とエネルゲイア(現実態)の可能⇄現実という対比に比べると難しい対比なのでここでは深く触れないことにする。