ドラマ #きらきらひかる の素晴らしさを全力で伝えたい
■はじめに~私ときらきらひかる~
私が一番好きなドラマを挙げるとしたら、それは1998年にフジテレビで放送された「きらきらひかる」ではないかと思う。
今でこそアンナチュラルや監察医朝顔など、法医学を扱う有名なドラマはいくつもあるけれど、この当時、法医学を扱う代表的なドラマは少なかった。
深津絵里、松雪泰子、小林聡美、鈴木京香という、その後全員主役級となった4人の女優陣を中心として、「恋もすればお酒も飲むし、死体解剖もすればオシャレもするんです」をキャッチコピーとしたスタイリッシュなこのドラマは、一部の層に今も高い人気を持つ。
私自身がこのドラマと出会ったのは、「踊る大捜査線THE MOVIE 2~レインボーブリッジを封鎖せよ!~」が公開された夏のことだった。再放送で出会ったのである。それから、何度見返したか分からない。大げさではなく、自分の人生を作り上げてきたドラマだと思う。
気が付けば放送から四半世紀。これまでにさまざまなドラマの感想を書いてきたけれど、振り返ると「きらきらひかる」の感想は一度もきちんと書き残したことがなかった。
35歳を迎え、作中に登場する4人の魅力的な登場人物の年齢を越えたこの春。改めて全話見返し感じたことを、noteに書き残しておこうと思う。
初めて視聴した中学生の頃、DVDが発売された大学生の頃。社会人となり、4人の女性たちに近づき始めた頃。きっとその頃感じていた気持ちとは違うだろうけれど、今の私が感じたきらきらひかるの素晴らしさを全力で言葉に残したい。
そして、このドラマの魅力が四半期を超え、さらにこの先の未来まで伝わっていくことを切に願っている。
■きらきらひかるの魅力
ドラマに興味を持ったことがある人ならば、視聴したことまではなくても、どこかで一度は名作ドラマとして「きらきらひかる」の名前を聞いたことがあるのではないだろうか。
なぜこのドラマが放送から四半世紀も経つ、今もなお名作として語り継がれているのか、私はいくつか理由があると思う。その理由を大きく4つに分けて整理したい。
①ストーリー構成のダイナミックさ
ひとつは、ストーリー構成のダイナミックさだ。
きらきらひかるの特徴は、事件モノらしく1話完結でありながら、全10話かけてひとつの物語を描いていく点にある。その構成がとてもうまい。
各話は主に、主人公である天野ひかる(深津絵里)が死体と出会い、検案・解剖し、成長していく姿を描いていく。きらきらひかるの導入を簡単に紹介しよう。
天野ひかるは、帝国医大を卒業したばかりの新米医師である。卒業時には出身大学の脳外科に進む予定だったが、「なんだかぐっとこない」と感じていた。そんなある日、卒業パーティで彼女は火事に巻き込まれ、友人と離れ離れになってしまう。事故現場から逃れた彼女は、火事で亡くなった死体と、その死体を検案していた法医学者の杉裕里子(鈴木京香)に出会う。火事の騒ぎに気が動転した店の責任者は、死体を検案する杉に「そんなことをしても生き返らない」と詰め寄るが、杉祐里子はこう返す。
「生き返らないから解剖するの。この人には何の準備もなく、突然死が訪れた。だから解剖して、どうして死んだのか、痛いところはなかったのか、最後の言葉を聞いてあげたいの」
その言葉に、天野は「ぐっときた。背中をバシッと押されたような」気がし、脳外科を蹴り、監察医として法医学の道に進むことを決めたのだった。
このため、このドラマは基本的に、「杉裕里子に憧れた天野ひかるが、検案や解剖を通じて、人の真実に触れ成長していく姿」を各話を通じ、天野の一人称で描いていくドラマである。視聴者は、天野の視点から死体に出会う。もの言わぬ死者に残された所見をひとつひとつたどりながら、なぜその人が死ぬことになったのかという「真実」を追いかける。
きらきらひかるの各話の構成は、このようになっている。
その一方で、ドラマの全体の軸として、天野の憧れである杉裕里子の物語が少しずつ描かれる。
杉は天野にとっては、「そんな人だとは思わなかった」「もっと素敵な人だと思った」と言われるような「意地悪な師匠」として描かれる。いわば、正反対の二人として設定される。
もともとは外科にいたが、なぜか法医学に転向してきたらしい。
誰ものか分からない歯を、大事にいつも持っている。
死者へ思い入れ、こうあったらいいなという理想を持ってしまう天野に対し、「監察医は死体の所見から分かることで判断しないといけない」といつも厳しく指導する。
こうした杉裕里子がなぜ法医学に進んだのか、どうして歯を大事に持っているのかという物語を全10話かけて少しずつ明かしていくのである。
各話の主人公は天野だけれど、きらきらひかる全体の主人公は杉である、とも言える。
また、特にこの杉を主人公とした物語は、死体から数々の社会問題をめぐっていく。
阪神淡路大震災、チェルノブイリ原発事故、旧ソ連に端を発するボスニア内戦、ウクライナ情勢……ものを言わぬ死体、意識を失いただの物体と化した遺体が、どのような経験をしてきたのかを雄弁に語っていく。
死体の検案・解剖というひとつの世界を極める先に、その人の生きざま、さらにはその人が生き抜いた世界が見えてくるというダイナミックさ。
これが、このドラマの大きな魅力だと思う。
②魅力的なキャラクター
きらきらひかるを語るうえで外せないのは、その魅力的なキャラクターたちである。
深津絵里、松雪泰子、小林聡美、鈴木京香という、女性から高い評価を得る女優陣がそれぞれ演じるキャラクターがとても魅力的なのだ。
主人公の天野ひかるを演じる深津絵里は、こうした女性の友情ものを演じさせたら右に出るものがいない。女性同士のちょっとしたいざこざや見栄、プライドすら嫌みなく見せてしまう。
まずもって、天野ひかるが深津絵里だからこそ、その他のキャラクターが魅力的に見えるのということを強く主張したい。医大を卒業したばかりの若く素直な天野の視点を通して、このドラマは瑞々しく純粋に「死」と「人」を描いていく。
刑事の月山紀子に松雪泰子。高飛車で傍若無人なキャリア志向の女性を演じさせたら右に出るものはいない、松雪泰子はそういう長らくそういう女優だ。
早稲田大学卒業で、女性のキャリア。若くして警部補であり、高卒でヒラの森田を顎で使っている。こうした文字にすると嫌なやつなのだが、松雪泰子が演じるからこそチャーミングなのである。
天野とほぼ歳の変わらない月山は、自分の正義をまったく疑うことがない。そこに月山の若さと弱さが見え、そこがまた魅力に映る。一方で、シリーズを重ねるにつれ、自分の正義を追及することへの覚悟が決まってくるのが分かるのも彼女である。「私を誰だと思っているの」という彼女の決め台詞は、彼女の正義に対する自信と覚悟を端的に示している。
天野が目標とする法医学者の助教授、杉裕里子は鈴木京香だ。時には天野と対立し、反発し合うが、天野は「杉先生」と呼び尊敬の念を送る。死体検案の前に一人でラーメン屋に入る。いつも単独行動。喫煙者。どこか「男前」の杉裕里子が魅力的なのは、他でもない鈴木京香のビジュアルと、淡々とした中にも意志を感じさせる芝居があってだろう。
天野、月山よりも大人だが、まだ社会に対し割り切れない20代後半の杉は、多くの人に共感を与えるキャラクターだと思う。
そして、4人の中で最も年上であり、バツイチの女性として描かれるのが小林聡美演じる黒川栄子である。小林聡美は良い意味で何を演じても「小林聡美らしさ」「彼女だからこその空気感」「安定感と頼りになるムード」があり、それは黒川栄子にしても健在である。
月山紀子、杉裕里子と一筋縄ではいかないキャラクターが多いなか、大人としての抜群の安定感とバランス感覚を見せる。小林聡美のもつカラッとした愛嬌と少しの毒は、こうした年の取り方をしていきたいという永遠の理想である。
こうした4人に加えて、天野や黒川の上司として柳葉敏郎演じる監察医務院部長の田所新作や、月山にいつも振り回される部下、森田和也を演じる野村祐人、杉の死んでしまった妹に篠原涼子など、魅力的な人物たちが脇を連ねる。
特にこのドラマは、登場人物たちが会話や議論を繰り広げる中で物語が進んでいくという特徴がある。
例えば、各話の冒頭又はラストには、4人の女性たちがイタリアンレストランで食事を楽しむ様子を見せる。
監察医、法医学者、刑事という重い職業に就く彼女たちが、お酒を愉しみ、恋愛話に花を咲かせる、「どこにでもいる女性」であり、そうした「どこにでもいる女性」だって仕事に忙しい日々を過ごしているのだと見せる、象徴的なシーンである。
(90年代の終わりに、女性が主人公のドラマで恋愛を中心にもってこなかったことが画期的なのだろうと思うし、今も古くなりすぎないのは、そうした女性の在り方が今も変わらないどころか、ようやく現実に追いついた感すらあるからであろう。)
こうした魅力的なキャラクターたちが、お互いに影響し合い、より良い方向に変わっていくさまは、ドラマを超えて「羨ましさ」すら感じさせるのである。
③引き込まれる関係性
特にその関係性の中でも特出すべきなのが、主人公の天野ひかると、彼女が監察医となるきっかけとなった杉裕里子の関係性だろう。
これについては長くなるので、記事を分けたい。
④真実に対する純粋な思い
個人的には、きらきらひかるの最大の魅力はこの「真実に対する純粋さ」だと思っている。
また、このドラマが単なる刑事もの、若しくはサスペンスものにならなかったのは、この純粋さを持ち合わせているからだと思う。
このドラマが他のドラマと何が違うのだろう、と思うと、ただ犯人を見つけること、すなわち「真相を明らかにすること」を目的にはしていないところだと思う。
このドラマの登場人物たちが目指しているのは「真実を見つけること」である。
「真実」は単なる事実ではない。
「真実」は、その人が生きていくうえでのベースと言ったらいいだろうか。
その人自身であり、思想であり、哲学なのではないかと思う。
きらきらひかるは、かつてフジテレビで数多くの名作ドラマを企画した、山口雅俊氏がプロデュースしたものだ。この山口氏のドラマにはこの「真実」という概念が多数出てくる。
きらきらひかるの中でも印象的な言葉がある。「真実が分かっても、死んだ人は戻ってこない。」それでも、私たちはそれを見つけたいと願う。いったいそんな「真実」とはなんなのか。
山口雅俊氏のドラマでは、法医学、タブロイド紙、行政書士、裁判、運び屋、金貸し…職業や舞台は変わるけど、どの作品も生きていくうえでの「真実」とは一体なんなのかを、登場人物たちが議論し見つけようとしているように感じる。そして私は、その必死さ、純潔さがとても好きである。
きらきらひかるにおいても、各登場人物が各々の信念に基づき「真実」と向き合い、それを見つけようとする。
天野ひかるにとっての真実は、人間に対する深い愛情だ。生きている人、生き残った人を救うものである。だからこそ、彼女は死者に、強い主観をもって接してしまう。それがゆえに、時には思い入れから事実を見逃すこと、ミスすることもある。ただ、だからこそ、死体から見える客観的事実を積み上げても辿り着けない答えに、彼女は辿り着くことができる。
月山紀子にとっての真実は、正義なのではないかと思う。悪は追放されるべきという生き方は、ある種の性悪説に近く、時には周囲を巻き込み呆れさせるけれど、その強さが彼女の魅力である。また、キャリアに強い信念を持つからこそ、プライベートで見せる弱さが彼女のチャーミングさでもある。
杉裕里子にとっての真実は、客観的事実の積み上げだ。主観をひたすら取っ払い、死体の所見から分かる科学的事実を積み上げたその先に、彼女は真実があるのだと信じている。それは、彼女自身が自らの主観に基づき行動した結果、大事な人を失ってしまった過去につながる。しかし、事実は事実という「点」にすぎず、それをつなげるためには解釈という「線」が必要だ。だからこそ、彼女はいつまでも彼女が辿り着きたい真実を見つけることができない。
黒川栄子にとっての真実は、ひとつではない、人の数、社会の数だけ存在している。裁判結果も、警察の捜査も、法医学の調査結果も、彼女にとっては等しく「真実」である。各々が信じたい真実を信じられればそれで良い。「真実は絶対にひとつしかない」と突き進むことが、必ずしも幸せではないと達観している。一番バランス感覚がある大人である。
田所新作にとっての真実は、「どこかに必ず存在するけれど、必ず辿り着けるとは限らない」ものである。監察医務院の部長である田所の真実に対する高潔な考え方があり、このドラマは独特の純粋な雰囲気と、澄み切った冬の空気のような緊張感があるのだと思う。
きらきらひかるの登場人物たちは、それぞれの信条と、真実への思いを抱え、死体と向き合っていく。その中でぶつかりながらも、「真実とは一体なにか」を深めていく。
死体は言葉を話すことができない。死体は、自らが死ぬことになった原因を、誰よりも一番知っているし理解しているけれど、それを言葉で伝えることはできない。その中で、一体何を「真実」とするのか。
単に事件を解決すればそれで終わり。容疑者の証言が死体解剖によってひっくり返される。
きらきらひかるは、そういうドラマではないのだ。
また、個人的には、きらきらひかるのそこが一番好きなところであり、何度も見返す所以である。
天野、月山、杉、黒川が四社四様、真実に対する考え方をもっているように、私達自身、その時々の状況や年齢、社会との関わり合い方によって「何を真実とするか」、その考え方は変化していく。
中学生の頃、大学生の頃、社会人になりたての頃、そして35歳の今。
私はいったい誰に一番共感するだろうか。そして私にとっての「真実」はいったい何なのだろうか。
このドラマを見返すたび、まるで登場人物たちとそうしたことを対話している気持ちになる。
おかしな話だけれど、彼女たちはある意味、真実について議論し合う「古くからの友人」なのだ。
■終わりに
以上、私が思うきらきらひかるの魅力を5000字にわたり書き綴ってきた。どれだけ言葉を尽くしても、このドラマの素晴らしさは少しも伝えられない気がする。
ただ、少なくとも私がどれだけこのドラマが好きなのか、その一端が誰かひとりにでも伝わることがあれば嬉しいと思う。
また、もし、この文章に少しでも意味があるのだとしたら、願わくばきらきらひかるがいつの日かTVerをはじめオンラインで配信して欲しい。
四半世紀前のドラマだけれど、東日本大震災があり、コロナという未曽有のパンデミックを経験し、ウクライナ情勢に緊張が走る今だからこそ、多くの人に届くものがあるのではないかと思う。
きらきらひかるがDVD化したのは、放送から12年経った2010年のことだった。
もうDVDにはならないのではないかとあきらめられていた中、パッケージ化しただけではなく、女優たちのオーディオコメンタリーまで収録された。
きっと、このドラマの熱いファンが、視聴者にはもちろんだけど、テレビ業界にもたくさんいたのではないかと思う。
そうであるのならば。
私と同世代にも、きらきらひかるのファンはたくさんいる。
きっと、テレビ業界にもたくさんいることだろう。同世代たちは今、組織の中堅になり、少しずつ自分のやりたいことを形にし始めているのではないだろうか。
そんな同世代をはじめとした、このドラマが大好きな人たちに届けと強く願って、私はこの文章を終わらせたい。
きらきらひかるがこの先も、多くの「真実」を求める人たちに届き、その心に小さな灯りをともすことを願っている。
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