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1400年も全く変化しない、宗教改革を拒否してきた回教


前回は、豚肉食の禁忌きんきと「クルアーンコーラン、税か、剣か」を例に、回教徒の思考法を分析した。豚肉食の禁忌は嗜好の問題だし、「クルアーンコーラン、税か、剣か」も傲慢で、剣は戦争を臭わせるが、危険というものではない。では、何処が危険なのか。それは回教徒の思考法、つまり思考の流れ、そのものにある。

回教徒は、問答無用でひたすら暗唱したクルアーンを解釈してシャリーアイスラム法に当てはめる。この事が危険なのだ。何故なら、1400年も前の習慣規定を現代に当てはめるからだ。どんなに時代が進んでも、残酷な刑罰、女性の家畜化、或は、クルアーン書を燃やしたり、ムハンマドを侮辱すると死刑の宣言が出たりと、民主主義の近代国家ではあり得ない事が復活する。

現代におけるアフガンのタリバン、IS国の兵士、イランの革命防衛隊、その他の国の過激派回教徒の集団を見れば分る。近代的なビルが林立するサウジ・アラビアは、近代国家の様に思っている人も多い。しかし、1980年代には、親の決めた結婚に従わず駆け落ちした男女を捕まえて、男は公開斬首の刑、女は非公開銃殺にして、民主主義国家の非難を受けた事件があった。以来サウジは、この様な刑を公開しなくなった。今もこの様な刑罰は、非公開で続いていると思う。

クルアーンの解釈は非常に危険なものに成り得る。かつて、ロシアを中心にした巨大な国家があった。ソビエト連邦共和国、略称ソ連である。このソ連が今のウクライナ侵攻と同じように、アフガンに侵攻して傀儡かいらい政権を樹立した事があった。この時、反政府軍を支援したのが米国である。

米国は情報戦略の一環として、反政府軍の回教徒兵士を訓練する時、クルアーンコーランの勉強に教科書を印刷して与えている。この中でジハードが殊更ことさら強調され、身をささげて戦うものになっている。此の時から本来は単に「努力する」の意味が、爆弾を抱えて戦う自爆攻撃をするに変質した。クルアーンとハディースを絶対視して、問答無用に丸暗記すれば、この様な過激な刷り込みが簡単に起こる。

ソ連はタリバンを含めた部族毎の反政府軍に手を焼き、やがて撤退することになる。ロシアは懲りない国だ。処で米軍の訓練を受けた回教徒兵士の中に、あの米国の世界貿易センタービルへのジェット旅客機特攻作戦、即ち911テロを計画指導したオサマビン・ラディンがいたのは何とも皮肉な話だ。

回教の国が一旦近代化、民主化したとしても1400年前の習慣規定は復活する。何故なら、神聖かつ不可変の神の言葉クルアーンコーランと、神聖かつ不可変のムハンマドモハメッドの言葉ハディースを回教徒は絶対視するからだ。トルコがその良い例だ。

トルコは建国者アタチュルクの指導の下に、宗教と政治経済を分離し、回教の習慣規定ではない法律を制定して、欧米並みの近代化への道を歩み始めた。トルコでは多くの女性はヒジャブスカーフを被らない。しかし、最近、保守派(習慣規定復活派)のエルドアンが大統領になると、シャリーアイスラム法の復活に力を入れ始めている。国民の様々な自由が制限され始めている。

イランの回教協会は、サルマン・ラシュディと言う小説家に死刑の宣告をしている。サルマンの書いた小説「悪魔の詩」

には、ムハンマドモハメッドを題材にしたと思われる部分がある。その中で、登場人物マハウンド(ムハンマドを連想せる)が娼婦を妻にしたかの様に書いている。これがムハンマドを冒涜したと言うのだ。

イランの回教によるこの死刑宣告は、民主主義国家の法による死刑とは違う。事実上、殺せの意味がある。つまり回教徒にサルマン・ラシュディを殺せと言っているのに等しい。サルマンは身の危険を感じて姿を消した。最近、イランの回教協会は、この死刑宣告を取り下げた。しかし、2022年8月にサルマンは回教徒に刺され重症を負った。

この出来事は日本人にも被害者を出している。

この本の日本語翻訳者である五十嵐一は、出版記者会見中にパキスタン回教徒に襲われた。

そして、1991年(平成3年)7月11日、筑波大学筑波キャンパスの構内で何者かにより刺殺された(事件は未解決の時効)。事件前には在日回教関係団体から出版中止の要請が出ていた。回教徒は、日本国憲法で保障されている信教(宗教)の自由を享受しているのに、その憲法が保障する言論の自由を尊重しない。回教徒は回教の教義を日本国憲法より優先するのだ。これを危険な宗教と言わずして何と言うのだろう。

回教が成立する数世紀前に、キリスト教は既に確立された宗教であった。国や地域によって多くの分派が生まれていた。そして聖書は、その国々や地域の言葉に翻訳されていた。キリスト教の教義、特に習慣規定は地域により差異が生まれた。ローマ帝国は最初はキリスト教を禁じ迫害したがやがて認める様になった。この過程で聖書は編纂され、習慣規定からより精神的なものに変わっていった。「汝の敵を愛せよ」「神は自ら助く者を助く」である。

仏教は発祥の地はインドであるが、亜細亜に広がって行くにつれて、小乗仏教、大乗仏教、密教、その他様々な宗派に分かれて行った。仏典も伝わる先で、その地の言語に翻訳された。つまり、キリスト教と同様に時代、地域に合わせて変化して、より精神的なものに変わっていった。「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」である。

一方、回教はスンニン派とシーア派の分派があるが、両者ともクルアーンコーラン(神の言葉)とハディース(ムハンマドモハメッドの言葉)を絶対視する事は全く同じだ。これらの言葉はアラビア語で書かれていて、翻訳は禁止とされている。パキスタンやインドネシアは回教国家だが、パキスタン語やインドネシア語のクルアーンは無い。つまり、クルアーンとハディースは1400年間全く変化していないのだ。勿論、宗教改革など皆無である。

以上

次回は「民主主義国家には回教は危険な宗教か?」の答えと、回教徒が日本に及ぼす影響を考察する。

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