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親がつけた名前を変えるとき。

いま改名申立書を作っていて、いままで25年間使っていた名前を変えるのだと思うと、新しい名前で生きられる自分にわくわくするのと同時に、母親がつけてくれた名前を本当に捨てるというこの気持ち、なんとも言い難いものがある。

改名手続きをする人たちは、本当にそれぞれの、いろんな事情・理由があると思う。わたしの場合も詳しいわけは書けないが、いまの心境を残しておきたいのでこの場を借りて記す。

「名前」のもつ忌々しさ。

25年間使用して、ともに生きてきた私の「名前」。いま新しい名前に変わろうとしていて、この「名前」というものは、過去の自分の生きざま、親との関係、、そんなことを漠然と想起させてくるのである。

私は名前が苦手だった。なぜなら、名前を呼ばれることは、嫌なことが発生する合図だったからだ。例えば、代表的なのは母親に怒鳴られるとき、はたまたセクハラをされるとき(〇〇ちゃん、と親しくもない男性に呼ばれ、たいていはそのあと不快な思いをした。)

たったその程度のことで嫌になったのか、と書いていて自分でも疑問を感じたが、おそらく、もっと根が深いところに自分の名前のもつ呪縛的なものがあるように思う。

まず、「わたしは〇〇(私の名前)として生きなければならない」と、生を受けたときから、その名を強制されることに違和感を感じている。しかし、考えてみれば、大人になっていく過程で親から虐待を受け、自分の家庭環境を呪い、苦しんだ。そうした経験から、名前を否定することで自分自身の存在を保とうとしていたのかもしれない。

呪縛からの解放手段としての改名。

家庭裁判所へ提出する書類に名前変更の事由を書くのだが、それにあたって、現実に向き合う必要があり、なんともこころが絞られる心地がした。

しかし、年末に母親と縁を切ったとき、旦那と結婚したとき、もう後戻りはできないと分かっていた。だから、あとは自分の判断を信じて淡々と実行していくだけなのだ。

わたしの新しい名前は、実は旦那がつけた。今の25歳のわたしをみて、ぴったりの名前を考えてくれた。外見やうわべだけでなく、中身をみてつけられた名前をとても気に入っている。

親は赤ちゃんの頃に名前をつける。その名前の通りに、その名前に似合うように生きるひともいれば、わたしのように名前に似合わなくなる人もいると思う。

おそらく、親の期待通りに生きていれば、わたしも今の名前がしっくりくる人間だっただろう。しかし、うちは日常的に虐待が発生していた歪んだ家庭だったため、親にしたがうことは危険だった。

必死で反発してなんとか家をでて、都会で働いていた。そこで今の旦那と出会い、初対面で「あんた、自分の名前、気に入ってへんやろ。」と当てられてしまった。シンプルにびっくりした。

そこからその人と結婚し、まず名字が変わり、そしていま下の名前も変えようとしている。

わたしにとって、改名とは、単なる戸籍上の文字列の変更ではない。過去の、親からの支配や、抑制された自分からの解放であり、新しい人生を出発するためのシンボルだ。

通称名を使用してから。

現在は、書面上の手続きはまだ途中だが、日常的には新しい名前を使って生活している。

新しい人間関係で自己紹介をするときは、はっとするほどすがすがしい気持ちになった。

今までの積み重ねでいまの自分があることは当然理解しているが、「名前」でラベリングされた昔の思い出や、つらい記憶からは、少し解き放たれた気分だった。

このまま改名手続きがうまくいって、戸籍上も通称名に変更できれば、本当に別の人間になれる気がしている。

しかし、それは新しい自分史のはじまりに過ぎない。変更後は、堂々と新しい名前を名乗り、ありのままの自分で自由に生きていきたい。


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