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怪物だれだ。身体の怪物も。

先日、話題の映画、怪物を見ました。朝イチという素晴らしく爽快な時間に見たら心が置き去りにされて時間軸と体力がバグってしまいました。
ネタバレしたくないですので抽象的な書き方になってしまいます。
誰もみなまっすぐ生きていて、自分の経験から知恵を振りしぼって誰かを守っていて、誰かのために力になりたいと思っていて、そしてわかってほしいと思っていて、一緒に未来へ向かっていきたいと思っている。
それに間違いはなくて、みんな正解だ。
生き方に間違いなんてない。
不正解もない。選択肢は無限にあり、人の数だけ経験だけ考え方も行動も変わってくる。そして全員幸せになりたいと思ってのことだ。当たり前だ。しかし、私たちは自分と同じ考えを誰かが持っていると期待してしまうし。そもそも分かり合えていると思い込んでしまう。間違いなのはそれなのだ。

私は小学校のPTAに関わっているのだけど、一つの問題に対して、子どもも、保護者も、教員も、校長も、地域のパイセンたちも、教育委員会も、行政も全部違う見解だったりすることを目の当たりにして衝撃を受けたことがなん度もある。なぜ衝撃を受けたかというと、その状況の方が当たり前だということに40年以上気付いてなかった自分、自分がいかに狭い世界に生きてきたかということこそ目の当たりにしたからだ。

私は、わかってくれる人や共感してくれる人、そしてみんなでリズムを揃えて歩んでいけるいわゆる同じジャンルの人としか仕事してこなかったのだと知り合ってこなかったんだと。そこに衝撃を受けたのだ。
私、全然わかってなかった。
差別のない社会、誰一人見捨てない社会、いろんなボランティアもしてきた。いろんな人がいるということを理解し、その上で行動しているつもりだった、、に過ぎなかった。

一つのものごとに対して、全員見方も感じ方も捉え方も見解も意見も何もかも違って当たり前なのだ。あなたをわかっているなんておこがましいにも程があるし、理解し合うなんてできっこないし、一緒の行動をするなんて絶対に無理だ。

それを当たり前として、「どう生きる」か。が社会なのだ。

というのも私はダンスを20年ほど、ヨガを18年ほどやってきてヨガに関しては15年も指導者をしているけれど、今だに体の使い方も同様だと最近わかったのだ。ダンスでやわらかいと思っていた部位はヨガでは硬いし、生活していくには強すぎるし、指導者としては弱かったりする。そしてその自分が医者にかかるとこれは健康を害すと言われるし、治療家からはもっと全然違う見方で関節の問題を見つけて関連をアドバイスされるし、違う運動をしたら今までの積み重ねで快適に動けたりもするし、出産なんてこんな理想の安産見たことないと言われた。もう何がなんだかどれがいいのかわらないのであります。

この健康法だけやっていればもう大丈夫!なんてものは体にとって存在しないってこと。そもそも自分が体のことを理解するのにも永遠な対話が必要だし、外からの助言を聞いていても全員違う。そしてそれが当たり前なほど人間の体は壮大で自由で仕組みがすごいのだ!!!全員の言ってることもどの観点からの使い方も間違ってなくて、全部正解なのだ。そして全部体のために良かれと考え抜かれていて、未来まで生きていけるような言動であり解釈である。

噛み合ってなくても全部希望が隠されている。
そしてもっとすごいことが真実だと思う。

怪物という映画は、結局本人が笑顔でいられる選択が幸せであり
希望だった。

私たちの体も、自分が今生きていくのに一番いいこと快適なこと元気なこと機嫌がいいこと笑顔でいられる選択が幸せだということ。

自分の中に答えがあるとヨガは言います。
内観せよと言います。それが瞑想です。

今日も全ての意見も価値観も正解だと快く受け止めそれを嬉しく思い
そして自分にとっての正解は自分の中にあるということを感じて
思い切り「希望」を笑顔にしていきたいと思います。





みんなのヨガ部というオリジナルWebアプリで全国、世界から一緒に
自分の中の快適を見つける習慣を部活動にしています。1回あたり200円から。





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鈴木めゆ
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