批評とは「違う景色」をみせること。
前回、鬼滅の刃の批評について書きました。
あくまでも近況報告が目的だったので、あまり深く考えずに思っていることをさらっと書いてしまったのだけど。
果たしてそこに誠実さがきちんとあったのか。
ちょっとふと立ち止まって考えてみる。
好きな人が大多数だと思うのですが、気を悪くした人がいたらすみません。
私的にはアンチみたいな視点ではなくて、傷つけたい一心でああいうことを書いているのではないけれど、受け取り手がそう思ってしまったら、結局そういうことになるのでしょう。
別に何か言われたわけではないのですが、もう少し熟考してから、書くべきだったのかな、と考えてしまいます。
批評って難しいですね。
何が批評で何がアンチになるかって、定義がすごく曖昧ではないですか。感じ方の問題だから、明確にルールを決めることもできません。
しかし、世の中にはキメハラなんて言葉まであります。
みんなが良い!といえば、良い!
私はこれがすごく苦手で、本当にそうなのか、確かめたくなります。
いつも批判的に作品を見てもいます。
ひねくれているのかもしれません。悪い言い方をすれば粗探しです。
だけど、作品に触れた時に私が感じたことは事実です。
みんなが良いというものが、本当にいいことだってもちろんあります。
でも、合わないこともあります。
自分の感性をもってして、導き出した答えに対し、異論は認めない!と世間が固まっていくのがあまり好きではありません。
個々人で見れば、そんなこともないのかもしれませんが…。
ちょっと、待って、と言いたくなる性分なんです。
今日はこれについて語りたいと思います。長いです!笑
◆マイナス意見は本当に悪いもの??
マイナス意見があるとして、わざわざそれを不特定多数に向けて書く必要があるのか?ディスる見方はマナー違反では?
という意見もありそうです。
でも、そもそもディスる感覚ではないんです。
。。。
失礼だいう自覚すらないのか!!終わってる!
と、逃げないでください〜!
違うんです。こういう物の見方もありませんか?って聞きたいだけなんだんです。
それがアンチと取られて、シャットアウトされると虚しさを感じます。
アンチと取られることには、私の筆の未熟さの問題もあるでしょうけれども…書き手として、そう取られる時点で負けなのはわかってます。
私はスター・ウォーズが好きなのですが、以前それまでのルーカスフィルムから、ディズニー作品として続編が出た時、あんまり面白くないなーと正直に思いました。これに関して、スター・ウォーズ好きの友達と話したのですが、彼女は続編も好きだと言いました。
どういう点が良かったのか聞いてみたくて、私はこう思ったんだけどと話を始めようとしたのですが、その場にいた第三者から、「好きだと言っている人に、わざわざ嫌いな点を言わなくてもいいじゃない?」とやんわりたしなめられたことがあります。
私は全く批判しようというつもりはなくて、意見交換をするつもりだったのに、否定的な意見を聞かせるな、と言われてしまったんです。
とても違和感を感じました。良いという人と、悪いという人は、はなから話すべきではないなんて。
嫌だった感想を聞かされると傷つく。
それも一理あるのかもしれません。
でも、誰かが、この楽しみ方はここにあるんだよって、全くちがう魅力を教えてくれるのなら、納得するかはともかく喜んで聞いてみたいです。
逆に私が好きなものに対する他の人からの批判的な意見に関しても、同じことが言えます。否定的な意見だとしても、いつも素敵と思っている物の違う側面に気がつくこともあるでしょう。
完璧だと思っていたけど、ここに弱さがあるのか!とか。
作品を理解するために、議論がしてみたいだけなんです。
批評とはその人にしかできない作品の読み方を提示することだと思います。
その人だから見える世界、そこに触れるからおもしろいのです。
でも、日本はそういう多様性を認めるというか、意見を交換するような視点が乏しいような気がします。
だからキメハラなんて言葉が生まれるのではないでしょうか。
「相入れないけど、否定はしません、そういう考えがあることは受けれますよ」というグレーゾーンが少ない。
これが極端に悪化するとどうなるかわかりますか。
かつて日本にも言論の自由が認められない時代がありました。
日本は戦争に負ける、日本は間違っていると思う、というだけで、非国民と蔑まれ、暴力の対象になることがありました。
本当に極端な話ですけど、このお国柄というか、悪い意味での和の心、同調主義は、一つ間違うととても恐ろしいものになり得ると思います。これは一見飛躍に見えて、根の深いところで繋がっていると思うのです。
マイナスな批評を一つの物の見方と捉えずに、作品否定、その作品を愛する自分自身の感性を否定された!と捉える人が多いような気がします。
話すことを止められた理由もここにあるのでしょう。
自分が大好きな作品を批判されて、それ以降手放しに称賛することができなくなった。作品批評なんてない方がいい!
という意見も見たことがあるけれど、残念ながら私はこの感覚がよくわかりません。
その作品、本当に好きだったんですか?と問いたくなります。
私にも誰かに作品をディスられて、すっぱり読むのをやめた経験があります。でもそれは、今思えば、批判した人ではなくて私に問題がありました。
私が唯一買ったことのある少年漫画は、銀魂です。
中学時代にハマっていたんですけど、あるときに
「そんな漫画を読んでいるなんてオタクだ」
と言われて、全部手放しました。
ショックだったけど、手放したのは私自身の選択です。
私にとっては作品どうこうよりも、周りからどう思われるかの方が大事だったんです。踏み絵を迷いなく踏んでしまう信念のなさです。
数年後に小栗旬が主演で実写化されて、オタクだと私を批判した女子が「銀さん、かっこいい〜」と言っている時は、白目を剥きましたけど笑
私に、誰がなんと言おうとこの作品が好きだ!という強い信念があったなら、こういうことにはならなかったと思います。
突っぱねればよかったんです。
人から何かを言われて、手放しに見られなくなるということは、言われた批判に無意識に納得してしまったからではないのですか。
そしてそれを認めたくない。
本当に好きだったら、打ち返して消せるだけの、魅力を発見しているものではないでしょか。
それを相手に言ってみたらどうでしょうか。
もしくは、私の感性でこの作品を愛しているからそれでいいのよ、そういう考え方もあるかもしれないけど、あの人の意見はあの人のもの!となぜ、思えないでしょうか。
ここには正誤も勝ち負けもありません。どう感じるかだけです。
傷つけられた!と思うのではなくて、どうしてそう思うのか、多角的視点で研究し始めたら、もっとおもしろいと思うんです。
とはいえ、ときには本当に傷つけてやりたいだけのアンチもいると思います。これは全く別物です。批評するならば、作品のいい面と悪い面両方、客観的に提示するのが誠実だと思いますが、難しいこと抜きに、ただただ生理的に受け付けないがために、なんの論理的思考もなく、嫌い!!!と攻撃してくる人もいるでしょう。
生理的に受け付けないなら仕方ありません。これも感性の問題なので。しかし、これこそ、独りよがりのディスりであり、わざわざ言わなくてもいいことです。この、オタク!と言ってきた子がいい例ですね。
そういう時は、議論なんて土俵にすら上がれません。無視です。
むしろ、価値があるからこそ貶めたいのだな、と称賛として受け取りましょう。本当に無価値なら、わざわざ手間を掛けて攻撃なんてしません。
この作品を楽しめる感性がないとは、気の毒に。私は、恵まれているんだな!!!!と自分のセンスに感謝しましょう。
この意見とアンチは見極めが難しいですが、ごく簡単に、大事なのは作品に対してリスペクトを持っているかどうかではないかと思います。
◆私が作品を見る視点
私はおそらく一般的な人より、批判的にものを見ていると思います。だから、今までにも、粗探しとか文句ばっかり言ってるという、印象を持たれることも何度かありました。世間で有名だからという理由で、簡単に賞賛しないところがあるのは事実です。その分、褒めるときには嘘がありません。
こういう気質を変えるつもりはありません。
こういう物の見方をする理由は二つあります。
○クリエイティブの観点から、人と違う物の見方を大事にしたいから
まだ創作する立場にはないけれど、何かを作ったり、考えたりするときに、人とは違う独創的な視点を持っているかということは、とても重要だと捉えます。
芥川龍之介は幼かった頃、学校で美しいものをみんなで考えましょう、と言われたときに、みんながお花や富士山と答える中、「雲」と答えて、先生や他の生徒から非難されたというエピソードがあります。
こういう話って今でもありそうですね。
また、その師である夏目漱石は英語のI LOVE YOUを、愛していますとは訳さずに、月が綺麗ですねと訳しました。
結構有名な話ですね。
この文豪たちの常識に囚われない感性が私はとても好きなんです。かなり硬い頭の持ち主ではあるけれど、自分もそうありたいと願っているんです。
この2人が作家として優れていることは、いうまでもありません。
何かを作り出すためには、独創的な視点が絶対に必要です。違う物の見方をして、今まで誰も気がついていなかったものに気がつくこと。
自分の感性を唯一無二に磨くこと。
そのためには、常識を疑ってみる視点が必要で、みんながこうだと考えていることに対し、一度立ち止まって考えるということが重要だと思うんです。
あと、単純にお話として楽しむ他にも、創作の技巧的な点、伏線の貼り方とか、筋道の通った話かということにも注目していろんな作品を見ています。
○言われたことをそのまま受身で信じることの危険性を知っているから
テレビで言っていたから。
みんなが言っているから。
新聞に書いてあったから。
たったそれだけで、人は嘘を簡単に信じ込みます。
事実に関係なく、大勢が信じたことが本当のことになる世の中です。人はもっとこのことに自覚的になるべきだと思います。
私にとって、これに気がついたきっかけはマイケル・ジャクソンで、それまでは世間を疑うという視点は持っていなかったように思います。
これまでよんでくれた人にとっては、耳にタコな話かもしれないですが、私はマイケルに関して深い後悔があるんです。
メディアを信じて変な人だと思い込んで、興味を持たなかった結果、亡くなるまで魅力に気がつけませんでした。
どんな出鱈目であっても何度も言えば、人は信じてしまうことを学びました。そういうメディアが撒き散らした世界的な誤解と中傷にマイケルは殺されたと言っても過言ではないんです。
私は彼に敵意を向けたことはないけれど、無関心であるが故に、そういう誤解を構成するものの一端に、知らず知らずのうちに加担しました。
無関心が何を引き起こすのかも、よく理解したつもりです。
だから、できる限り繰り返したくないと思っています。
ここ数年の間でもマイケル・ジャクソンを貶めようという金銭目的の嘘のドキュメンタリーが作られてしまったんだけど。
「これを見たら彼が悪人だと信じざるを得ない!」という人の意見にはがっかりします。
批判的思考なくして、信じざる得ないのは当たり前です。そういうことを信じ込ませるために作った物なんですから。
誰が作ったのかとか、他の人はなんと言っているかとか、経緯とか、そういったことの参照を抜きに、悪質な作品一本で判決を下す。
悲しいけど、これに関わらずあらゆる事象において、多くの人が犯す過ちです。ごく一部の側面だけを見て、いろんな判断が下されます。
ワイドショーを見ただけで有識者になれます
ヒトラーの我が闘争は禁書としてドイツでは厳重に管理されているけれど、なぜかといえば、読んだものがその思想に染まる危険性があるからです。
批判的思考がある人ならば、客観的に判断することができるでしょう。いろんな事象と合わせて検証して、答えを慎重に導き出すでしょう。
でも、みんながそうとは限りません。自分が見たものを、見たまま、言われたままに疑うことなく受け入れる人もいるんです。むしろ、そういう人の方が多いです。
あらゆる問題を回避するために、批判的思考を持つ。周りではなく自分でいろんなものを見て考える。周りに同調して、物事の良し悪しをジャッジしないということは、私にとって経験上とても重要なことなんです。
以上の二点を踏まえると、私が好きな作品がどういうものかも見えてきます。考える土壌があって、多面的な視点を見せてくれる作品です。
また、誰も見たことがなかった発見を与えてくれる、固定観念を打ちこわしてくれるものということになります。
私は不器用ながらも、そういう基準と考え方を持って、作品を見ています。
◆批評をしている人は何者なのか、に注目すること重要性
なぜ、私のものの見方を明らかにしたのかというと、批評というのは意見を言っている人が何者であるか、ということがとても重要だからです。
私はマイケル・ジャクソンが大好きですが、学生時代に先輩にCDを貸したら、「歌が重い」と言って返されたことがあります。
作風が合わなかったことに関しては残念に思ったけれど、それで傷つけられたなんて思わないし、どうして!と怒る気持ちにもなりません。
なぜなら、マイケルの歌が重いなんてことは先刻承知済みだからです。
私はその重さが心地よくて好きなわけですが、彼にとってはそれは心地よくなかった、それだけのお話なんですよ!
むしろ、これはちゃんと聴いてくれた、鑑賞してくれたからこそ、出てくる言葉です。
ここには音楽に何を求めているか、ということに対しての相違があります。
アンチとて受け取らないためには、この相違、意見を言っている人が作品に求めているもの、その人のポリシーの違いをしっかり認識する必要があります。
そしてこのポリシーの違い、独自の視点があるからこそ、見える世界がそれぞれに違って面白いんです。
私はメッセージを深く読み込んだり、背景を理解する視点で音楽を楽しんでいたけれど、先輩が音楽に求めていたのは、きっと安らぎとか、ノリの良さだったということに思い至りました。
朝学校に行くとき、気分を上げたかっただけなのに、耳元で環境問題や世界平和をうたわれても、困ってしまうでしょう。
マイケルジャクソンの一部の楽曲は、こういう目的としては不向きに作られていることを私は把握しています。
だから、何にも不快に思うことなんてないのです。ただ、受け入れる、入れないの問題抜きに、そういう音楽の楽しみ方もありますよって、先輩に伝えるのみなんです。
元に戻って、鬼滅に関してもそうです。
私は、上に書いたような物差しで作品を見ています。
私は鬼滅より、進撃の巨人みたいな作品が好き。私が大事にしている物差しにフィットする作品はそっちでした、という話なんです。
私のような感性の人には、鬼滅はこう見えるんですど、世の中の評価に対して違和感があるんですけど、この辺についてどう思いますか?と問題提供しているだけなんです。ちょっと荒っぽい書き方にはなりましたが。
大学で読む新書や、学術書もそうです。映画もそうです。
作っている人がどういう人か、どういう派閥に属している人なのか、どういう物の見方をしている人なのか、ということを把握することが大事です。
これは、ちょっとそれますが、物事の真偽を見極めることにおいても、重要な視点ですね。
たとえば、マイケル好きな私が書くマイケルの情報は、マニアックであると同時に、変な贔屓がないかその客観性を疑われて然るべきかもしれません。
(嘘は書いていないし、できるかぎり客観的に書いてるつもりですが。)
逆にドキュメンタリーを作った人たちは何者なのか、信頼できる人なのか、ということも、問題になるでしょう。
発信者の立場に理解があれば、いろんなことがわかります。同じ作品に対する批評の良し悪しの差異も、もともとの所属が違うからこそ生まれてくるものなのだと気がつける。
そこから眺めると、なるほど、景色はそう見えるのかという発見。
なぜ、そういう考えに至るのか、冷静に理解することが可能になると思います。そしてそれは、賛同できなくても結局自分の作品理解、客観的視点を持つということににとって、プラスに働いたりするんです。
どちらが正しいかではないです。物の見方の多様性に気がつけて、面白がれるか、ということが重要なんです。
その積み重ねで、独自性が生まれると思います。
こういうことを忌憚なく話せる友人も何人かいますが、話をすると本当に楽しいです。私だから見てほしい映画がある!と言われると、めちゃめちゃ嬉しくなっちゃいます。
ああいう人がこういう作品を見たら、なんというだろう。
聞いてみたい!!!
と思わせること。
そこに批評の価値があると私は考えています。
ここまで行きついたら、最高です。
批評にも小説と同じくらいの独創性が生まれてきます。
いろんな世界にみんなを連れて行くことができます。
でも、まだまだ言葉の使い方がなっていないので、今後も慎重に、丁寧に、誠実さを持って、書いてみることが目標です。
最後まで読んでくれてありがとうございました。