元少年A『絶歌』を読んで

はじめに

この記事は私の所属しているコミュニティの書評活動の一環として書かれた記事になります。今回は『絶歌』という本を題材にしており、コミュニティメンバーのお二人も同じ題材で記事をかかれます。そちらの記事のリンクはこちらになります。そちらも読んでいただけるとより嬉しいです。

本書について

私はこの元少年A(酒鬼薔薇聖斗)が起こした「神戸連続児童殺傷事件」の存在は元々知っていた。私自身の生まれた地域も年代も全くこの事件と掠るところは無いので、直接的な接点は何ひとつもないと言っていいだろう。おそらくこれまでの人生のどこかで知識として知っていたのだろうと思う。また、この事件を知っていると同時に『絶歌』という本が出版され、世の中に流通していることも知っていた。そのような状態で本書を読んだが、最初に感じたのは不気味さやアンバランスさだった。本書の大まかな構成は第一部と第二部の2つから成っている。第一部では自分が事件を起こした際の状況や心情が綴られており、第二部では少年Aが少年更生施設から出所したのちにどのように社会と関わろうとしてきたかが書かれている。先ほどアンバランスであると述べたのは、この2つの章の文章が全く別の人物によって書かれたのかと思うほどに違う。それが奇妙なアンバランスさを作り出している。具体的には、第一章は少年Aのとても狂気な側面が見え隠れするような文章が並んでいる。自分がモンスターとなるまでの様子や犯罪をした後の心境、その時の自分の身の回りの様子が恐ろしく克明に描写される。文章が純文学的でありながらも恐ろしいまでに写実的なので、小動物を殺した描写の生々しい温度が伝わってくる。以上で挙げたように、第一部に共感を覚えるのは容易ではない。逆に共感してしまったらいけないのではないかという気さえする。私自身、著者の思考の展開について共感はできなかったというよりも少年Aとの距離感を感じた。後ほどでも詳しく語るが、この章は更生したと述べている人物が書いた内容としてはかなり違和感があった。
それに対して第二部はガラリとテイストが変わる。少年Aが施設を出所した後に日常の生活や就職した時の経験が心の機微とともに書かれてあり、その内容も1部に比べて大きく飛躍があるわけではないのでとっつきやすい。日常生活の中で生まれる苦悩は私も持っているし、この記事を読んでくださっている方も何かしらは悩みを抱えていると思う。だからこそ、この2部の内容には異常性、狂気といったものは感じられず、普通の人間に近い何者かが書いたといった感じがしてアンバランスさが目立つのである。

本書を読んでみて

先ほどでも述べたように本書にはかなり違和感がある。第一部と第二部での筆の取り方(筆の乗り方?)は違うように思える上、これら2つはつながりがあまり巧みではないのも相まって非常に不自然な作りである。もっと踏み込んで言えば、第一章では話を作り込み少年Aのストーリーとして最も恐ろしがられそうな物語を書いているのではないかということだ。まず、文章のトーンや構成に注目する。第一部は非常に詳細で、感情の起伏や情景描写が細かく描かれる。例えば、幼少期の記憶や家族関係、猫を殺したエピソードなどを語る際、その語り口には一種の「過剰さ」が感じられる。これは、読者に自分の内面を理解させようとする意図が強く働いていることを示す。しかし、その過剰さが逆に不自然さを生み、心から湧き出る感情をそのまま綴っているというより、「こう書けば伝わる」「これを書くべきだ」と計算しながら筆を進めたような印象を与える。特に、残酷な行為に至る心理を説明する箇所では、自己分析があまりにも整然としすぎており、後付けで理屈をこじつけたように見える部分がある。つまり、第一部は彼の「真実」を伝えるというより、ある種のパフォーマンスとして機能しているようにも感じられるのだ。
前提として、この本は被害者遺族に無許可で出版をされたものであるため、全体的にパフォーマンスであることは拭えない。

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