「文化人類学と現"在"美術からみる『ポストヴィレッジ』そして『メタシティ』」(後編)
本基調講演で、現在美術家の宇川直宏さんと文化人類学者の奥野克巳さんがメタシティの思考基盤となりうる「ポストヴィレッジ」の概念を提言。
後編は、まず佐渡島で行われたパフォーマンスを例に身体的なコミュニケーションと神話の成り立ちについて考察する。その後、現代の都市生活においていかに多自然主義的感覚を実現するか、にまつわる構想を話す。
(前編・中編はこちらから)
本記事は、2019年1月に開催した『METACITY CONFERENCE 2019』の講演内容を記事化したものです。その他登壇者の講演内容はこちらから。
・TEXT BY / EDITED BY: Shin Aoyama (VOLOCITEE)
・PRESENTED BY: Makuhari Messe
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多自然主義的パフォーマンス
宇川:次に、最近僕たちがやったパフォーマンスを見ていただきたいと思います。これはDOMMUNEもオーガナイズに加わり、佐渡島で行われた『さどの島銀河芸術祭』で、BOREDOMSのEYEさんと一緒に世界農業遺産として登録されている棚田で収録したパフォーマンスです。手前味噌ですが、これもポストヴィレッジを考える上では大変重要なんじゃないかと。ちょっと動画をお見せしますね。
佐渡島は日本海最大の離島。大佐渡山地と小佐渡山地が北東〜南西に伸び、二つの山地の間に国中平野が広がっている島は、その形からバタフライアイランドとも呼ばれています。
対馬暖流の影響で夏は本土より涼しく冬は暖かく、多種多様な植物や海生生物をみることができます。
かつては金の産地として、日本のみならず国際社会にも影響をおよぼし、トキの群れが優雅に飛んでいた佐渡。時代時代にさまざまな人や物の往来があった佐渡は、能や鬼太鼓などの独特な芸能・文化を生み出し、独自の生活スタイルや日本文化が残っている場所です。
多様な価値観が共存してきたこの島の、海沿いの集落から標高350mを超える山間には棚田が広がっており、江戸時代に開田が進み、その形状を残しながら受け継がれてきた田圃は現在460枚ほど。
山からの清水や湧水にも恵まれ、海から昇る日の光と海から吹く風にのって赤とんぼが飛び交う中、新たな民話として島民の口から口へと語り継がれるべき今世紀の伝説が生まれました。
SADOMMUNE|SADOINFINITY88 CYMBAL Conduct by EYE(BOREDOMS)さどの島銀河芸術祭 Photo by DOMMUNE(2017)
SADOMMUNE|SADOINFINITY88 CYMBAL Conduct by EYE(BOREDOMS)さどの島銀河芸術祭 Photo by DOMMUNE(2017)
SADOMMUNE|SADOINFINITY88 CYMBAL Conduct by EYE(BOREDOMS)さどの島銀河芸術祭 Photo by SHUNSUKE SHII(2017)
SADOMMUNE x サドテレビ x Conduct by EYE(BOREDOMS) 「SADO INFINITY 88 Cymbal」〜さどの島銀河芸術祭2018(2017)
いま映し出されている場面は棚田に88個のシンバルを「∞」(無限)の形に並べているところです。そしてBOREDOMSのEYEさんが水槽の中に入って、変性意識状態、つまりトランス状態で指揮をするんですね。ジョン・C・リリーのアイソレーションタンクという有名な瞑想装置がありますけど、あれと同じようなコンセプトで、水の中にEYEさんが演奏中ずっと浸っているわけです(実際のアイソレーションタンクは皮膚の温度に保たれた高濃度の塩水)。つまり水中浮遊した状態で指揮を行う。『螺旋のかたち』と書いてますけど、『和合と生命無限性の表象』というシンボリックな記号そのものに広く一般から募集した88人のシンバル隊が連なっていて、演奏を繰り広げていく。またここには、佐渡島の形自体も反映されているんですね。さっきバタフライアイランドって言ってましたけど、この島は「8」にも「∞」にも見える。つまり、佐渡の島自体を奏でようという発想ですね。そしてそれをストリーミングを通じて世界に拡散していくという、いわば現代における秘境で1夜限りのトライヴを組織し、祈祷の儀式を行ったわけです。
これは2018年の10月8日に収録されたんですけど、日が沈むシークエンスを演奏の冒頭に取り入れています。日が沈んで闇が訪れ真っ暗になり、あたりに住居が一切ないので、真の意味での自然の暗闇を共有できる時間帯に演奏される。佐渡島という離島の棚田でトライバルな儀式空間が立ち上がり、シンバルの音が山にこだまする。現代なのか、古代なのか、もしかして未来なのか、いつの時代なのか全く分からない、秘境の新たなるトライバル・コミュニケーションを参加者全員でで体感できた本当に素晴らしいイベントでした。これこそが本来の意味での芸術のあり方であると僕は信じています。
さて、これも実は、多自然主義的なアプローチとして捉えられるんじゃないかと思いまして。この音を奏でる装置には多国籍な88の身体が存在しています。つまり神や精霊と交信する儀式のように、多様な身体が一丸となって自然や宇宙との接触を試みたんだ、と自信を持って言えるんじゃないかと考えていますがいかかでしょう。
Percussion and Transition──非言語コミュニケーションの役割──
奥野:非常に面白いですね。シンバルというのはパーカッションですが、文化人類学ではRodney Needhamによる『Percussion and Transition』という議論があります。パーカッションを通じて何か別のものに移行し、聖なるものに接近する。すなわち、言語ではなく非言語を通じて、何か別の次元とのコミュニケーションを体感すること。それが、共同体の中で非常に重要な役割を果たしてきたわけですね。このイベントに参加された方々は、どういう意識で参加されて、これをどんな経験だったと認識してるんですか。あるいは何を得られたと思っているんでしょう。
宇川:その非言語的なコミュニケーションのツールとしてシンバルが採用され、彼らの中でコンダクトされたのです。指揮者であるEYEさんの水槽から伸びた手の動きを見ながら彼らは演奏するんですが、みんな徐々に意識が飛ばされ、覚醒していくんです。瞑想装置によって変性意識状態に入ったEYEさん自身から指令が出ているわけですから。いわば、部族の司祭がトランス状態で儀式を行うことと等しく、司令塔の変性意識が部族間に伝播していき、強烈な一体感と至福感につつまれ、最終的にみなで狂喜乱舞する。そういう意識の伝播を、参加した演奏者たちは体感できたと思っています。
奥野:つまり、自然そのものの中にある身体が宇宙や世界と感応していったと。しかしこうして文章表現にしてしまったら、あまり面白くない。つまりロゴスでは語れない領域なんですよね。そこで、アートやパフォーマンスが持つ意味は非常に大きいと。
宇川:そのとおりですね。奥野さんの本につなげるならば、レヴィ・ストロースの「無意識の言語」的な発想ですかね。ランゲージを超えた言語体験がこの中にあるのかなと思います。その観点ではいかがでしょう。
現代の神話を立ち上げる
奥野:レヴィ・ストロースは神話に人間と自然の関係を見ました。そこでは人間が主体として神話を語るのではなく、神話自体が語り手を通じてその関係性を明らかにしていくんですね。だからこのパフォーマンスも、人間が主体としてやっているように見えて実は、自然が語りかけていることを感知するためのシステムとして捉えられるんじゃないかと思います。
宇川:先ほどの動画でも語られましたが、まさにこのイベントは「今世紀における神話の起源」を形作ったのではないかと考えています。。例えば『まんが日本昔ばなし』ってアニメがありますよね。民話はその地域で起こった出来事を民衆に口伝されて広まっていったわけで、そのうちに尾ひれがついて物語が豊かになっていく。そうして民話は熟成し固定されることなく育っていく。そうやって何百年も語り継がれてアニメ化され、映画化され、人々の心に残り、また語り継がれていく。そのように、実際の出来事が誇張され、そのうち神格化されることによって、神話が形作られるならば、このEYEさんのパフォーマンスは今世紀における神話の起源だと言えますよね。これを体感した島民たち、つまり演奏者や観覧してるおじいちゃん、おばあちゃんや子供たちは、いかにその感動を後世に伝えていくのか...... それって例えばこんな風に口伝されていくのでは?と僕は考えている訳ですよ。
「ある一人の蛍光色に輝いた宇宙人が佐渡島の棚田に『∞』(無限)の形をした黄金のUFOに乗って降り立ち、なんと水槽が時空を超えて立ち現れ、島民がその存在に魅了され、UFOに引き寄せられて88個のシンバルをコントロールした。そのシンバルが奏でる音は山や谷にこだまして、佐渡の島の棚田から世界に向けてそのシンバルの音は広がっていった。そうして佐渡島の形も『∞』(無限)になった」
こうした物語の逸脱がまさに神話の本質なのではないかと思いながら、このパフォーマンスをライヴストリーミングしたんですね。
奥野:まさにそのとおりでしょうね。
都市生活に多自然主義を実装するには
宇川:このパフォーマンスもポストヴィレッジのコンセプトを通して語れると思いますが、最後にこのポストヴィレッジの構想について。先ほどもお話ししましたがソーシャルメディア誕生以降、コンテンツ消費の時代からコミュニケーション消費の時代に移行したといわれてますよね。でも、産業革命以前はコンテンツではなくコミュニケーションが本来優位だった筈です。プナンにはTVやインターネットが存在しているかわかりませんが、未来の都市におけるコミュニケーションの鍵こそが、多自然主義的な概念だろうと。そこで奥野さんは、都市において多自然主義はどう生かされるかとお考えでしょうか。
東は、棚田に水をためるために「畦塗り」をする。それができると自然の内に人工してやった感でゾワゾワするという。そこに愉悦があるのだともいう。この〈人工の愉悦〉から自然破壊へは、一本道でつながっている。他方で、畦を作るとそこにはカエルが集まってくるだけでなく、それを狙うヘビやイモリたちも集まってくる。東は、小動物たちへの生きる場の提供を誇りに感じるとともに、さまざまな生き物たちと出会うことができる〈共生の愉悦〉を手に入れる。
人間は歴史をつうじて〈人工の愉悦〉に酔い痴れ、自然を人工的に統御するようになった。そのことは逆に〈共生の愉悦〉に禁欲的になったことを意味する。東によれば、現代社会の暮らしは寡欲的であり、里山の不耕起農耕の暮らしのほうが、両方の愉悦を求める点でむしろ強欲的なのである。
いま農業をすることは、都市を放棄して自然に回帰するのではなく、〈人工の愉悦〉と〈共生の愉悦〉の両方に対して貪欲になることだと、東は高らかに宣言する。『つち式』の思想とは、自然を意のままにしてきた結果としての、人間関係中心主義的な〈多文化主義〉と、生き物たちと生き交わす〈多自然主義〉の同時肯定である。
奥野:最近『つち式』いう雑誌が出たんですが、これなかなか面白くてですね。東千茅さんという20代の都市生活者が農民になったっていう。ここで彼は、人間関係中心主義に陥った現代社会の都市文明を非難するんですが、全否定しているわけではない。例えば農業で畦塗りをすると、ぞわぞわとした愉悦があると言うんですね。これこそが自然を征服する「人工の愉悦」であり、最終的には自然破壊へと繋がるわけです。でも同時にこの畦には様々な小動物が集まってくる。ここに農業のもう一つ愉悦があると言うんですね。それは「共生の愉悦」だと。カエルや虫や蛇といったいろいろな動物に出会う愉悦です。つまり彼は、この二つの愉悦を同時に満たしたいがために農業をやり始めたと言うんですね。
人工と共生の愉悦を同時に肯定するのが農業なんだと。人工の愉悦は都市文明につながっていくわけですが、それでは片手落ちなんですね。都市に住んでいる人間は、共生の愉悦には禁欲的なんです。二つの欲望へと開いていく強欲さこそが農業だって言ってるんですね。
喰い喰われるなどという、主体と客体が入れ替わる「反転可能性」を孕む関係性がはりめぐらされているのは、たしかに自然に近い場所であろう。だが、人間だけがつねに特権的な主体であるという思い込みが覆されるのは、なにも自然のなかだけではない。
デュシャンが示したように、主体と客体が絶えざる往還運動を繰り返すことで、私たちはいつでもどこででも、自然のなかでも都市空間であっても、感応的な身体を作り出すことができるのだ。 このことが示しているのは、都市の真っただなかでも、制作をつうじて〈多自然主義〉が現れうるという事実である。〈多自然主義〉は、私たちの足下に鬱勃と潜んでいるのだ。
そうすると、われわれは自然に常に接近していなければならないのかという疑問が湧きます。ここで上妻世海さんの『制作へ』を参照してみたいんですが、上妻さんは都市においても多自然主義が可能であることを、デュシャンを引きながら語るんです。これもつまり自己同一性にまつわる話で、安定した都市空間に住んでいるわれわれは普段、自己同一性を自立的なものとして考えてしまっているんですね。しかしデュシャンが好んだチェスというのは、「相手がどう考えているのか」を考えて指すわけです。さらに相手は「自分が何を考えているのか」を考えながら指してきます。そこには往復運動によるゆらぎがある。つまり、特権的な主体としてこの世界に成り立っているという思い込みを覆す空間が、そこに出来上がっているわけです。これを上妻さんは「制作的空間」って呼ぶんですが、主体と客体が絶えず往還運動を繰り返すならば、私たちはどこでも感応的な身体をつくれると言うんですね。こう考えると実は、多自然主義っていうものは私たちの足元ひそんでいるようにも思えてきます。
空間軸と時間軸の延長の先に去来するメタシティ
何もかも現代の諸要素を前提にその拡張の上に考えるだけでは、アイデアや課題が限局化されて、乏しくなるにちがいない。
水平線の向こうまで、歴史の消え去った過去にまで軸を伸ばして考えてみなければ、今後のMETACITYは見えてこないのではないか。
最後になりますが、いままで私は都市についてあまり考えたことがなかったんですが、なぜ私を対談相手に選ばれたのかを含めて考えてみました。まず都市の未来を考えるときに、現在の諸要素を拡張していくだけでは、アイデアは限局化され乏しくなるだろうと。つまり、メタシティを考えていくためには、空間軸と時間軸の伸長が必要であると。一つは、水平線の向こうまで。これは地球の遥か彼方に住む人間が何を考えてるのか、どういう暮らしをしているのかということです。もう一つは、歴史の消え去った過去。記録が消え去ったような狩猟採集の時代には何があり、どう感じられていたのかということです。そうやって考えない限り、メタシティはわれわれの見えるところまでやってこないのではないか、と私は思うんですね。
宇川:ありがとうございます。90分間、メタシティというテーマの前提となるんじゃないか、ということでポストヴィレッジについて考えてきました。奥野さんが最後おっしゃっていたことを踏まえると、我々はメタシティ的には「未開」の部族なわけですよね。今開かれつつある、現実社会とソーシャルメディアという二つのレイヤーにまたがる意識交流空間の住人として、われわれはまだまだ未開人なんだと。だからこそ、SNSの有益な使い方すらまだ手探りで、都合のいいポストトゥルースに流されたり、憎悪の連鎖を止めることさえできていない。そんな未開なるメタシティ/ポストヴィレッジの部族として、今回はプナンの人たちの生き方、思想哲学に触れることによって新たなる一歩を踏み出せたんじゃないかと思っております。本当にありがとうございました。お疲れさまでした。
青木:ありがとうございました。多自然主義、多文化主義という異なるOSを見ていくことで、ありうる生き方というものが見えてきた気がします。
私が気になったのが、民族の中で評価されるポイントが変わってくることはあり得るんですしょうか。例えばプナンでは、ものをシェアすることで「大きな男」という地位につきますよね。これが民族によって結構違うんじゃないかと思いまして。昨日の対話の中で「シビックプライド」という言葉が出てきましたが、共同体をつくりあげていく上で市民のプライドと接続することは非常に大切だと思うんです。そこで、共同体で共有されている価値や目指したいビジョンを考えていこうとするときに、この「共有する価値」ってどう変わっていくのかなと思ったんですが、プナンではどうなってるんでしょうか。
奥野:個人というのは共同体に埋め込まれている、というのがプナンの在り方だと思います。ある種のプライドを持って特定の人物像を目指すことは、なされない。コミュニティの中で一番うまくやっている人の言葉が重みを持つというやり方なんですね。そこでは主体というのが個人にはなく、自然も含めた様々な他者との関係を受け入れるかどうかによって、その人の人格が決まってくるという社会なんですね。われわれは個人が知識や技能を持っていると考えるので、個別安定的な自己同一性を出発点に据えるんだと思いますが、彼らにはそういうのはないんでしょうね。
宇川:自然に生きる共同体を考えると、共有する価値っていうのは環境適応能力だと思うんですよ。環境適応能力が高ければ高いほど、多分、共同体の中の評価も上がってくるんじゃないかと。
青木:経験的なところから生成的に生まれてきた評価なわけですね。では環境が変わると、プナンの人たちの評価ポイントも変わってくる可能性はあるんでしょうか。
奥野:彼らにとって自然との関係が非常に重要なのは、自然というものが危険だからなんですね。ボルネオの森には巨大捕食獣はいないですが、私自身も15年間でマラリアに3回かかっていますし、何らかの危険が外側から常に迫ってくるような社会なんです。そこでは自然との関係で社会が変容していく。動物をどうやって捕らえるかはもちろん、病気によって一掃されてしまうかもしれない。そういう環境では、安定的な自我は社会の中にはないんですね。一方の私たちは都市空間に住むことで守られているわけですね。その中で個人の知識が成立し、それらを基盤に社会が回っていく。そういう現在のあたりまえの社会とは違う在り方があるというわけですね。
青木:分かりました。まだまだ議論したいのですが、また続きは『DOMMUNE』で。
宇川:そうだね。そうしましょう!ぜひ!
青木:ありがとうございました。
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登壇者プロフィール
宇川 直宏|UKAWA NAOHIRO(DOMMUNE)
DOMMUNE/”現在美術家"。1968年生まれ。香川県/高松市出身。映像作家/グラフィックデザイナー/VJ/文筆家/大学教授/そして”現在美術家"など、幅広く極めて多岐に渡る活動を行う全方位的アーティスト。既成のファインアートと大衆文化の枠組みを抹消し、現在の日本にあって最も自由な表現活動を行っている”MEDIA THERAPIST”。日本に於けるVJのオリジネイター。2001年のニューヨークPS1 MOMA「BUZZ CLUB」、ロンドン・バービカン・アートギャラリーでの「JAM: Tokyo-London」での展示から、国内外の数多くの展覧会で作品を発表。2013~2015年度文化庁メディア芸術祭審査委員。2015年度アルスエレクトロニカ(リンツ・オーストリア)審査委員。高松メディアアート祭では、ディレクター/キュレーター/審査委員長のなんと三役を担当。1980年代末「ヤバイ」という日本語スラングを初めて肯定的な意味に変転させて使用し、著述を通じて世間一般にまで広めた人物でもある。また90年代初頭より文中においてエクスクラメーションマークの連打「!!!!!!!」を多用し、現代の日本語における「感嘆」や「強調」の表現を、SNS以前から独自的に拡張した。2010年3月、突如個人で立ち上げたライブストリーミングスタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」は、開局と同時に記録的なビューアー数を叩き出し、国内外で話題を呼び続けている。宇川はDOMMUNEスタジオで日々産み出される番組の、撮影行為、配信行為、記録行為を、自らの"現在美術作品"と位置づける。また、これまで、数々の現代美術の国際展に参加し、ロンドン、ドルトムント、ストックホルム、パリ、ムンバイ、リンツ、福島、山口、大阪、香川、金沢、秋田、札幌、佐渡島...と、全世界にサテライトスタジオをつくり、偏在(いま、ここ)と、遍在(いつでも、どこでも)の意味を同時に探求し続けている。現在、宇川の職業欄は「DOMMUNE」。著書として『@DOMMUNE-FINAL MEDIAが伝授するライブストリーミングの超魔術!!!!!!!!』(河出書房新社)他。DVDに「MAD HAT LAUGHS!!!!!」(Ki/oon / SONY)他。ミュージシャンとしてはUKAWANIMATION! 名義「ZOUNDTRACK」(avex trax)他。2020年には瀬戸内国際芸術祭に参加し、15番目のサテライトスタジオ「DOMMUNE SETOUCHI」をビル一棟をフルリノベーションして開設!!!!!!! 世界中から注目される芸術祭のプロジェクトとして異彩を放ち、大きな話題をよんだ。2019年11月22日、渋谷PARCO9階のクリエイティヴスタジオに移転。そして2020年3月の開局10周年の第二章に向けて、5G以降の最前衛テクノロジーと共に未来を見据えたUPDATEを図り、ファイナルメディア『DOMMUNE』の進化形態『SUPER DOMMUNE』へと進化する!!!!!!
http://www.dommune.com/
奥野 克巳|OKUNO KATSUMI
立教大学異文化コミュニケーション学部教授 1962年、滋賀県生まれ。バックパッカーとして、メキシコ先住民テペワノを単独訪問し、バングラデシュで上座部の仏僧になり、トルコ・クルディスタンを旅し、大卒後商社勤務を経て、インドネシアを一年間放浪後に文化人類学を専攻。主な著書に、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(2018、亜紀書房) 、『「精霊の仕業」と「人の仕業」:ボルネオ島カリス社会における災い解釈と対処法』(2004、春風社)、『Lexicon 現代人類学』(2018、石倉敏明と共編著、以文社)、 『人と動物の人類学』(2012、山口未花子、近藤祉秋と共編著、春風社)、『セックスの人類学』(2009、椎野若菜、竹ノ下祐二と共編著)、訳書に、ティム・インゴルド著『人類学とは何か』(2020、共訳、亜紀書房)、レーン・ウィラースレフ著『ソウル・ハンターズ:シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(2018、共訳、亜紀書房)、エドゥアルド・コーン『森は考える:人間的なるものを超えた人類学』(2016、共監訳、亜紀書房)など。
青木 竜太|RYUTA AOKI
コンセプトデザイナー・社会彫刻家。ヴォロシティ株式会社 代表取締役社長、株式会社オルタナティヴ・マシン 共同創業者、株式会社無茶苦茶 共同創業者。その他「Art Hack Day」、「The TEA-ROOM」、「ALIFE Lab.」、「METACITY」などの共同設立者兼ディレクターも兼任。主にアートサイエンス分野でプロジェクトや展覧会のプロデュース、アート作品の制作を行う。価値創造を支える目に見えない構造の設計を得意とする。
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