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こういうのを情報環世界と呼ぶらしい

自分とは異なるバックグラウンドを持った人たちと脳ミソをつなげ合ってアイデアを生み出していく経験に感銘を受けたタイミング(前回note参照)で、まさにそのようなことについて書かれた本に出会うことが出来たので、忘れない内に書いておこうと思います。

『情報環世界』―この本を知ったきっかけはTakram Cast。ちょうど一年くらい前に聴き始めて、それから毎回欠かさず聴いているポッドキャストですが、それこそ自分の「情報環世界」を拡げてくれるメディアのひとつです。
そういえば、アカウントだけ持ってて全く使っていなかったnoteを使い始めたのも、Takram Castの「深津貴之さんがnoteのCXOになったよ」って回を聴いたのがきっかけでした。

さてまずは、この聞きなれない「情報環世界」という言葉…の前に「環世界」という概念について、本書冒頭のマンガのセリフから引用してみます。

地図おばけ「ウムちゃんは環世界という言葉を知っているかな?」
ウムちゃん「はぁ?環世界…?なんスか?それ?」
地図おばけ「例えば、目の見えないコウモリは超音波を使って世界を知覚しているだろう?マダニは主に、嗅覚、温度感覚で世界を知覚し、血を吸う相手を探す…このように、全ての生き物は、それぞれ固有の感覚に基づいて独自の世界を知覚している!もちろん人間も含めてだ!これを環世界という!」
ウムちゃん「そ…それとアレ(スマホばかり見ている現代人)のなにが関係あるんスか!」
地図おばけ「彼らはスマホを手にしたことで、世界中の情報に触れられるようになったのだ。それは、情報ネットワークを通じて知覚できる世界を広げているともいえるだろう…!しかし、それぞれの人間が目にする情報は限られておる!独自の閉じた情報世界を生きているのだ!これを情報環世界という!」

こうして書き起こしてみると、僅か4ページのマンガの、しかもほんの数コマで説明されて腑に落ちるくらい「情報環世界」という概念が、初めて触れるものであるにも関わらず自分にとって実感しやすいものだということに気付きます。

ところで、書き出しておいてなんですが、はっきり言って本書を未読の方に内容をうまく説明できる気は端からしていないので、僕はここで自分が経験した出来事と結びつけてはっとしたことをだらだらと書くばかりになると思います。悪しからず。

前段として、最近「謎のアイデア集団」に参加する中で気づいたいくつかの事柄があります。
・ひとつのキーワードから拡がる連想は人によって全く異なるということ。
・その差異は、その人の歩んできた人生とか住んでいる場所、日々の関心や得ている情報の差異から生まれていること。
・そんなふうに自分とは違う世界の見方をしている人たちと一緒にアイデアを生み出すことは、まるで脳ミソをつなげ合うような感覚を呼び覚ますこと。

そしてまさに、本書第2章ドミニク・チェンさんのパートにこんな記述があります。

19世紀末に、フランスの社会学者ガブリエル・タルドが「人々の移動や交通とは”脳の協働”なのだ」と表現しましたが、まさに今、インターネットという技術基盤が「脳の協働」を推し進めているわけです。これもまた、情報環世界の交流という視点で捉えられるでしょう。(中略)コミュニケーションがおもしろいのは、ある人が何らかのアイデアを投げると、それがみんなの頭の中にそのままインストールされるのではなくて、それが常に翻案され、変化してゆく、その複数の環世界を移動しながら変化していく側面にあります。

「ある人が何らかのアイデアを投げると、それがみんなの頭の中にそのままインストールされるのではなくて、それが常に翻案され、変化してゆく」

まさにこれ、謎のアイデア集団に感じたダイナミズム!
自分が投げたアイデアに対するコメントが、自分が意図していたのとちょっと違う受け止められ方をしてるな…と感じる場面があっても、むしろそこで誤読されることでより面白いアイデアに繋がったりする。

ところでこの本、ブックデザインと構成がすごく面白いんです。

5人の共著者によって書かれた本編は、一旦出来上がった本を共著者同士で査読しあって蛍光マーカーで線を引いて思い思いに書き込みをしたものを横から見せてもらっているような感じに組まれています。ある著者が書いた話の中で別の著者が連想したことが、本文を補足したり脱線したりしながらページ下部に書き添えられています。
まさに、5人の著者がそれぞれ持つ情報環世界がこの注釈を介して融けあっていく様を眺めることが出来る構造になっているんです。
この感じも、前述の自分のアイデアに他の人のコメントが付いて次のアイデアのヒントになる在り方に似ています。

さらに、冒頭マンガから入る構成もすごくキャッチーだし、巻末にワークショップガイドとブックガイドも付いているので、軽く足を踏み入れて、読み終える頃には本書の更に外側まで情報環世界が拡がるような作りになっています。

最後に、第1章伊藤亜紗さんの「身体と情報環世界」に関連して。

2年くらい前に「手話を生きる」という本を読みました。
その本を読んで初めて知ったのは、今日本で使われている手話には文法からして日本語とは異なる「日本手話」と日本語との連携のために作られた「日本語対応手話」という2種類が存在するということで、特に日本手話の中には日本語では十分に表現しきれない言葉や表現があるということ。
この本を読んで最も印象に残ったのは、音声言語では表現しきれない繊細な事柄まで表現する力が手話という言語にはあるんだということ。つまり、耳が聞こえない人の「環世界」は決してこちらが勝手に想像するような不自由なものではないということ。

そう考えると、「健常者」という言葉の持つ恣意性に気づかされます。
「常に健やかな者」と書くけど、その人の状態が健やかかどうかの判断基準は、その人の環世界の内側にあるはずで、つまり「健常者」という言葉が字義的な意味合いで共有されている社会というのは、ヒトという生物種が唯一共通の環世界に閉じた存在であることが前提とされる社会ということになります。

きっと情報環世界という概念を知っているだけで、そんな前提から自由になることができる気がします。誰もが環世界という概念を知っている世界は、自分とは違うものに対してとても寛容な世界なんじゃなかろうか。
割と日常会話にもさらっと登場する単語になるくらいのポテンシャルがある気がするんですよね、情報環世界。
あともうちょっとキャッチーさがあるといいんだけどな…。

多分、僕の本書の理解はとても一面的で断片的です。それでもとりあえずとっ散らかった考えをここに書き留めておこうと思ったのは、本書第5章渡邊淳司さんのパートで塚田有那さんの第4章に言及して書かれたこんな言葉に励まされたからです。

現在の世界は、複雑な背景や関係性の上に成り立っており、簡単にわからないことのほうが多いでしょう。生物としては、安定した予測モデルにいるほうが心地よいわけで、時に「わかったつもり」になってしまうこともあるでしょう。しかし、それは長い目で見ると必ずしも環境との関係性を豊かにするわけではありません。そんなときに必要になるのが、塚田さんの議論に出ていた、「関わる」という態度です。わかることによって意識的な思考を停止するのではなく、「とりあえずわかったことにするけど、まだわからない」という、最終的なわからなさを担保しつつ対象と関わり続けるという態度をとることです。

僕の駄文で大事なところが伝わった気が全然しないので、ちゃんと知りたい方はぜひ著者の一人であるTakramの緒方壽人さんのnoteを読んでください!





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Mesco Iwata
どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。

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