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なんてことのない私を、なんてことないと思う

そこそこに映画が好きだ。

映画館に通い詰めて貪るように観るほどではないし、知らない映画も観ないでいる映画もたくさんあるけれど、時間ができて行った小さな映画館で流れる予告に胸を躍らせるのが好きだし、手のひらサイズの世界に感情を狂わされる2時間をかけがえのないものだと思う。

ストーリーが好きだとか、音楽が好きだ、とか、俳優が好きだとか、監督が好きだ、とか色々あるけれど、私は映画特有の美しい世界が特に好きなんだろう。

画面の隅から隅まで、見えないところまで作り込まれたその部屋に、涙が出そうになるくらい感動する夜があって、もしくはなんてことないはずのどこかそこら辺の街がこの世には存在しないのではないかと錯覚するほど美しく光る時がある。

監督や俳優をはじめとして、数多くの人々が各々の感情や創造力や技術を持ち寄って作られた2時間は、壮大すぎて、私には抱えきれなくて、とにかくおそろしい。

だからこそ美しくて尊いと思う。
私はその美しさが好きだ。



そういう、「壮大さ」というものに対面して、自分のちっぽけさ、何者でもなさ、なんてことのない自分に打ちひしがられることがかなりある。

それは映画だけに限らず、大学で専攻していた建築や、個人的に勉強する心理学や、恋人の愛する音楽や、私が愛する踊りや、もっと言えば究極は考えることそれ自体にたいしても、だ。

よくないのは、その壮大さに対する恐怖心が肥大していって、私の頭の中にあるそれというビルに巨像恐怖症を発症して、それを避けるようになってしまうことで、今でもずっと解決できないでいるのだけれど。

それと対比したなんてことのない自分に対する情けなさ、切なさ、悔しさは、感じることが少なくなったと思う。

自分に対して、諦めたのだと思う。

だけどその諦めは決して悲しい意味ではない。
当たり前のことを言うようだけれど、私はその辺の田舎町に生まれたどこにでもいるような1人の人間で、少なくともこの世の誰か別の1人が、少なくとも一度は考えたことのあるようなことを考えて生きているし、私が好きなものを好きだと言う人はどう考えたってたくさんいるし、私のできる範囲のことは私以外の誰かにだってできる範囲のことなんだと思う。

だからどこかで輝いているように見えるあの人だって、所詮その辺にいるただの人間だ。
そう、私が私を諦めることができたのは、私じゃない誰かを、諦めることができたのと相互作用の上でなんだろう。

きっと私のかつての苦しい向上心は他人への尊敬、羨望から成り立っていた。
もちろん今でも自分以外の誰かはやっぱりすごくて、私は君になりたいと思うことばかりなのだけれど、それだけではないことを知った。

誰かが驚くほど美しく見えるようで一方では泥をつけていることもあるように、私だって完璧なまでに美しくはなれないし、私がどんなに頑張っても大きくなれないように、誰かも大きく見えるようで実はそうでないこともある。

そしてそれは当たり前のことで、かついけないことではない。
むしろなんてことのない自分を認め、受け入れ、生きることは簡単に目にできる美しさや大きさよりよっぽど美しくて大きい。

気付いていたかもしれないけれど、認めるまでにだいぶ時間がかかった。

私は私で、小さいけれどそういうもんで、当たり前で、別にそれでよくて、しかもそれで幸せだ。


なんてことのない私を、なんてことないと思う。
そこそこに好きな映画と、なんてことのない私の話。

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