難しい話が、難しいままであってはいけない
「難しいね」
この一言で、会話が終わることがよくある。
例えば恋人との将来の話や喧嘩の話を友達とする時、友達は私の恋人のことをよく知らないし、どっちが良いとか、悪いとか、簡単に言ってはいけないという配慮から、「難しいね」と言うかもしれない。
例えば差別や偏見の話を聞いた時、どの立場から話をしてどの意見を尊重すれば良いか分からないから、「難しいね」と言うかもしれない。
私たちの会話には、難しい話が多すぎるのだ。
しかしこういう難しい話が、難しいままで終わらせてはいけない瞬間がたくさんある。
例えば恋人との将来は決断しなければならない時が来るし、喧嘩は解決してそれぞれの心の中で消化しなければならない。
例えば差別や偏見を目の前にした時、どう自分が向き合うか選択しなければならないし、行動にするもしないも、決めなければならない。
どんなに難しい話にも、決断すべき時はどこかで必ずやってくる。
だから私は、難しい話を「難しいね」で終わらせないようにしたい。
それは一種の逃げであり、そういう逃げが必要なときももちろんある。
いくらその場で逃げずに向き合ったって、決断は必要で、それをするのはひとりだ。
だけれど会話の相手や私自身が、いつか決断する必要がある時のために、その決断の答え候補をいっぱい増やしていたいなと思うのである。
何がどう難しいのか、何に悩んでいて何に尽力しているのか、どう手詰まりでどう困っているのか、それから、これからどこに向かえばいいのか、どうやって一歩前進させるべきか、何から始めていったらいいのか、そういうことを語れる私でいたいし、語りたいなと思われる私になりたい。
これはあくまで理想論で、そんなことを思いながら私は昨日も、「難しいね」と口にした。
難しい話は、難しいままであり続けてはいけない。
だって私たちは難しいことばかりに囲まれているから。
少しずつ易しくなっていて、少しずつ光が見えてきて、そうやって一歩一歩、進んでいきたい。
難しい話が、難しいままであり続けることがなくなりますように。
今日もゆっくりと生きます。