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工部美術学校とは


工部美術学校(こうぶびじゅつがっこう)は、日本で初めての本格的な西洋美術教育機関であり、1876年に設立されました。この学校は、工部省の管轄下にあり、工部大学校の付属機関として位置づけられていました。設立当初から、画学科と彫刻学科の二科が設けられ、西洋美術の技術教育を目的としていました。

工部美術学校は、イタリアから招聘された教師たちによって運営され、特にアントニオ・フォンタネージ(画学科)やヴィンチェンツォ・ラグーザ(彫刻学科)が重要な役割を果たしました。彼らは西洋の美術教育法を日本に導入し、学生たちに新しい技術や表現方法を教えました。このようにして、工部美術学校は日本の近代美術教育の基礎を築く重要な役割を果たしました。

しかし、1883年には財政難や国粋主義の台頭などの理由から廃校となりました。廃校時には、卒業生や修業証書を受け取った者は35名に過ぎず、その後の日本美術界においても影響力を持つ作家たちが輩出されました。特に小山正太郎や浅井忠などは、この学校で学んだ後、日本の洋画界で重要な地位を占めるようになりました。

工部美術学校の設立は、日本における西洋美術教育の始まりを示すものであり、その後の東京美術学校などの設立にも影響を与えました。日本の近代化と西洋化が進む中で、この学校は技術者や芸術家を育成する場として機能し、日本の美術教育史において重要な位置を占めています。


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