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ひまわりの約束・番外編

牛窓の海辺に週末だけのカフェを開いた亜希子と光太だったが、すぐ目の前の商業施設の利用者が自然派ランチを食べに来たり、犬連れで入れることがクチコミで広がって、岡山市や倉敷市、兵庫県から人が訪れ、そこそこ賑わっていた。時に光太のインスタグラムのフォロワーが東京から訪れることもあった。彼らは、光太がリノベーションした店舗の関係者だったり、彼が入居時の世話をした賃貸マンションの住人だったりした。グッドルッキングな上に親切な彼は、特にシングルマザーに人気があった。何でも、彼が結婚して東京を離れた後に「光太ロス」が起きたらしい。

父の遺言

光太は話したがらなかったが、東京の不動産を全て手放したのには理由があった。それは亜希子の父、剛の遺言に関連していた。剛は亡くなる前に、遺言を公正証書にしていた。それによると、長女の亜希子にはカフェの土地のみを相続させ、後の不動産は全て長男の光太が相続し、管理することになっていた。剛が暮らしていた屋敷は、更地にしてマンションを建てることも追記してあった。そのマンションの最上階に光太は住んでいた。

おおらかな気性の亜希子は、そのことについて異議も唱えなかったが、当時の夫の隆行はそれを知って、かなり憤った。高校の社会科の教師だった彼は国立大学の法学部出身だった。しかし、そこは光太の親友の弁護士、洋一がうまく収めた。不動産を所有することには、必ず管理責任が伴う。それは隆行が最も苦手とする分野だった。それに亜希子が生きている間は、彼には何の権利もなかった。

剛は、光太にこう言い残していた。

「わしは、あの道楽者の婿にはビタ一文もやるつもりはない。亜希子に熱を上げとった頃は、それでも見どころがあると思っておったが、あいつには女房を養うという甲斐性がまるでない。わしが死んだら、亜希子の身内はお前だけだ。もし、亜希子が暮らしに困るようなことがあれば、お前が継いだ財産を売って、あいつの面倒を見てやってくれ。頼んだぞ。」

光太はそのとき思った。「自分は借家住まいの貧乏な漁師の息子で、せいぜい相続できると言っちゃあ、船一艘だった。それも母ちゃんが生活のために売ってしまった。母ちゃんが再婚して、金持ちにはなったけど、お父さんのものは全部、本当は実子の姉ちゃんが相続すべきなんだ。せめて、姉ちゃんが俺の嫁になってくれれば、全て丸く収まるんだけどなあ。」

光太が執着するのは、亜希子だけだった。その祈りにも似た願いはかなった。その次は海だ。彼は亜希子を連れて牛窓に移住し、貸別荘とドッグカフェ付きの家を建て、釣り用の船を買った。地元の漁師と懇意になった光太は、彼らと一緒に釣りをした。また、時折東京からも釣り仲間が訪れた。弁護士の洋一は妻の淳子とミニチュア・シュナウザーのジュジュを連れて来て、隣の貸別荘に泊まった。

母のおきて

海が好きな一人息子に亡くなった光太の母、陽子が残したおきてがあった。

 お酒を飲み過ぎないこと。飲んで船に乗らないこと。
 一人で海に出ないこと。
 結婚して嫁がいるなら、後家にしないこと。
 万が一の時のために必ず生命保険に入ること。

彼女の前夫は、光太の5歳の誕生日に鯛を釣ってくると言って、一人で海に出て、帰らぬ人となった。朝から上機嫌で酒を飲んでいた(彼の稼ぎは、ほぼ酒代で消えていた)。陽子は、港で魚の加工の仕事をして、家計を支えていた。

光太は母に似て、勤勉で努力家だった。生まれつきの優れた能力もあった。もしかしたら、これは一度見た漁場に迷いなく行けた父親から受け継いだものかもしれない。

光太は、不動産会社の社長令嬢でありながらカフェを切り盛りして、昔の母と同じように自分の生活を支えていた亜希子に楽な暮らしをさせたいと思っていた。しかし、母がそうだったように、亜希子もカフェの仕事が好きだった。愛する妻の好きなことであれば、光太も協力しないわけにはいかなかった。彼は牛窓で、週末だけ「マスター」と呼ばれることになった。建築士としての仕事は、牛窓の古い別荘のリノベーションを年に一つか二つすれば十分だ。手先の器用な光太は、知り合いになった商店のおかみさんらに頼まれて、簡単なリフォームや修理を材料代だけでしてあげている。「あきちゃんと一緒に食べられぇ。」と言って、帰りにお土産をどっさりくれる。岡山のちらし寿司は魚がたくさん載っていて豪勢だ。酢蛸や鰆の酢じめは、亜希子の好物。穴子の漬け焼きがまるまる一尾入った太巻き寿司は、光太の好物。


カフェ ”Dog Patio Usimado
"

金曜日
光太が釣りをする金曜日の夕方はお刺身パーティーだ。この辺りでは、鯛の他にアコウメバルや平目も釣れる。刺身にしたり、カルパッチョにしたり、残りは煮付けや唐揚げにする。カフェ用に切り身もたっぷり作って、塩胡椒をし、衣をつけておく。光太が捌いていく片端から、亜希子が調理していく。

「鯛や平目の舞い踊り、ってこのことだね。乙姫様が陸(おか)に上がってるけど。」

「姫様は婆ぁで悪うございましたね、太郎さん。」

「あきちゃんは俺のマドンナだって。」

光太は白ワインや純米吟醸酒を片手に幸せそうだ。それも程々にして、翌日のために早く休む。

土曜日
土曜日の二人の朝は早い。5時には起きて、フォカッチャの生地を作る。1.2kgまでこねられるパンこね機に、国産強力粉とオーガニックシュガー、瀬戸内の塩、有機栽培オリーブオイル、岡山県境で採れるグラスフェッドの牛乳、天然水、酵母を入れて、生地をこねる。生地を取り出し、300gずつに切り分け、丸めて発酵機で30分ほど発酵させる。発酵機から取り出し、ガス抜きをして再び丸め、10分ほど置く。楕円形に成形して、常温で40分から60分発酵させる。(平たく伸ばすと、パンタイプのピザ生地になるが、これは別の日に作っておく。ピザ生地は半焼きにして冷凍する。)二倍に膨らんだら、縦三列に穴をあけ、その穴にオリーブオイルを垂らす。裏庭から採ってきたローズマリーの葉をちぎり、数カ所に置いて、180度のオーブンで15分焼く。大型の電気オーブンは、フォカッチャを4枚焼くのにちょうど良い大きさと性能を備えている。

光太がパンを作っている間に、亜希子はカレーの用意をする。淡路の玉ねぎを12個みじん切りにする(玉ねぎは皮を剥いたら、冷蔵庫で冷やしておくと、涙が出ない。これは亡くなった光太の母、陽子から教えてもらった)。大鍋に香りの少ないタイプのオリーブオイルを入れて火にかける。クローブ、フェンネルシード、ローリエの葉を加え、中火で炒め、香りが出たらみじん切りにした玉ねぎを入れる。木ベラで炒めていくのだが、力仕事だ。肩や腰が痛くなる頃、光太が助けに入る。

「何よ。あきちゃんは歳だって思ってるんでしょう。」

「なんも、そんなこと言ってないよ。女の人に力仕事をさせるのは、男の沽券に関わるって思ってるだけ。つべこべ言わずに、俺にやらせとけって。」

そんなたわいもない会話をしながら、玉ねぎを炒めていく。玉ねぎに透明感が出て、香ばしい匂いがしてきたら(亜希子は犬のようにクンクン嗅ぐ)、カレー粉を投入する。追加のスパイス、カルダモンパウダーやシナモンパウダーを加え、玉ねぎと馴染ませる。その上に、一口大に切り塩を振った鶏もも肉を置き、豪快に混ぜていく。牛窓産のマッシュルームも加える。鶏肉の周りが熱で白くなったら、トマトソースと同量の水を加え、時々かき混ぜながら中火で煮込む。

あとは、隠し味の無添加だし醤油とマンゴーチャツネ、塩で味付けする。体を温めたい季節には、ニンニクや生姜のすりおろしも加える。暑がりの亜希子は、夏場はそれらを入れないのが好みだ。仕上げにココナッツミルクを加えて完成。二人で味見して、二人とも笑顔ならOK。火を止めて、あとは余熱に任せる。鍋の蓋は、少しだけずらしておく。

「これ、ごくごく飲めるよね。辛いんだけど、舌に残らない。残るのは玉ねぎの甘さだね。あきちゃんの塩梅は絶妙だよ。いっつも日曜日には、売り切れないで残ったらいいのにって、思ってるんだ。」

「また、子供みたいなことを言ってる。売り切れたら、また作ってあげるわよ。」

「鍋の底に残ったのが美味いんだよな。」

このカレーは不思議とフォカッチャにも合う。ヨーグルトとバナナとレモン蜂蜜で作るラッシーはカレーの親友だ。辛さも体の熱も緩和してくれる。

「まるで、俺と洋一みたいだね。」

「どっちがどっち?」

「うーん、強面の洋一がカレーで、あっさり系の俺がラッシーかなぁ。」

「カレー弁護士とラッシー建築士?…面白いわね。いっつもラッシーがカレーに助けてもらってるけど。」

亜希子はケラケラ笑いながら、次の作業に取り掛かる。地魚のフライは、前日に獲れたての鯛などを切り身にして、国産小麦のパン粉(ショートニング不使用)を付けるところまでをやっている(瀬戸内海は鯛がよく釣れて、値段も安い割に肉質も味も良い)。米油を揚げ鍋に入れ、準備完了。付け合わせの無農薬野菜を生野菜用シャワーで洗って、サラダ用に切ってコンテナに入れる。ゆで卵ときゅうりのピクルスとパセリを刻んで、無添加マヨネーズに加え、タルタルソースを作る。隠し味は、白ワインとレモン蜂蜜だ。

「腹減ってきた。あきちゃん、俺たちも早めのランチにしようよ。」

残り野菜で作ったスープで喉の渇きを潤し、焼きたてフォカッチャの切り分けた端っこにかぶりつく。

「焼きたてのパンは、きつい労働の後の最高の報酬だね。昔の人の気持ちがよくわかる。」

彼は、ミレーの落穂拾いの光景を思い描いているのだろうか。

「その頃の後家さんや父なし子は麦の落穂を拾って生活してたんだって。貧乏だった頃の俺の母ちゃんは魚を捌いてたけどね。おかげで俺もできるようになった。それにしても、ここの魚は美味いよね。」

止めなければ、幾つでも食べてしまいそうな勢いで、フライを平らげる。

「あきちゃんのタルタルソースは酸っぱくなくていいね。」

瀬戸内産のレモンは収穫後の防虫カビ処理が不要で、安全で使いやすい。縦に6当分してフライにたっぷりかけるので、タルタルソースは酸っぱくないほうがいい。オムライスとパスタやピザは注文を受けてから作る。パティオでいただくピザは最高。まもなく外に窯を設置する予定だ。そして、カフェの看板犬ももうすぐ迎えることになっていた(洋一の愛犬ジュジュに子犬が生まれるそうだ。光太は育児ならぬ、犬の育て方を熱心に学んでいる。そのうち、犬の訓練士の資格を取るつもりらしい)。

日曜日
日曜日は6時に起きて、パンに取り掛かる。カレーは土曜日に二日分作っているから、冷蔵庫から鍋を出して、火にかけるだけだ。温まってきたら、鍋の底からかき混ぜる。あとは、サラダの用意だけでいい。

二人の日曜日のブランチは、光太のリクエストでたいていオムライスになる。

「母ちゃんのオムライスも美味しかったけど、姉ちゃんのオムライスはどこか大人っぽいね。」(昔話をする時は、『姉ちゃん』だ)

「多分、倉敷の味工房のデミグラスソースのおかげでしょ。陽子ママは、ソースも手作りだったけど、ちょっと甘めだったわね。」

「そう言われればそうだね。お父さんが甘いソースが好きだった。」

「そうだった。パパは甘党だった。懐かしいわね。」

さあ、忙しい日曜日のランチタイムが始まる。

月曜日から木曜日、そして毎年
祝日はカフェを開くが、その他の月曜日は休む。朝食の後、光太は掃除を、亜希子は洗濯をすませて、昼から岡山市内のホームセンターや園芸店を回る。裏庭にはまだまだ花や野菜を植えるスペースがある。フォカッチャになくてはならないローズマリーは、建物が完成する前に大苗を数本植えてある。月桂樹の苗も隅に植えた。バジルやイタリアンパセリも植えた。オレガノやミントは一度植えればいくらでも増える。パティオにはオリーブの鉢も置いた。

「母ちゃんは、静岡で畑仕事もしてたけど、まさか、俺が鍬を持って畑を耕すとはね。まあね、英国のお屋敷の主人は一流のガーデナーでもある、っていうからさ、いいんだけど。」

「ここじゃあ、ガーデナーっていうより、お百姓さんね。ほら、そこにある麦わら帽子を買ってあげるわね。」

「あきちゃんには、あの花柄の頰かむりのついたやつを買ってやるよ。」

帰り際に、花苗のコーナーを通り過ぎようとして、光太が立ち止まった。

「ひまわり植えない?」

「え?もしかして99本?あるかしら?」

「取り寄せてもらおうよ。やっぱり99本。その間に土を作っとくからさ。」

毎年真夏になると、彼らのカフェの裏庭には黄色やクリーム色のひまわりが太陽のほうを向いて咲き誇る。ゲートには、”Promessa del Girasole"とイタリア語で記されたサインを掲げた。訳せば、「ひまわりの約束」である。

                            (おしまい)








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