見出し画像

多様性を論理的に全肯定する【数理生物学】

はじめに

昨今よく聞くようになった「多様性」という言葉に、ネガティブなイメージを重ねられることがある。一部の人は、「多様性の尊重」を「ヤバイ奴を、嫌だけど容認しなければならない」と読み替えて、それを窮屈に感じているように思える。
「多様性」は「種の多様性」「遺伝子の多様性」のように、生物学でよく出てくる単語だ。本来そこに良い意味も悪い意味もない。
生物学的な「多様性」と、世間で言われる「多様性」はもちろん文脈が違うのだが、生物学の世界では「多様性」にネガティブなイメージが伴うことはほぼない。なにせ、多様性を持つことは地球上で最も成功している生存戦略である。
というわけで、ここでは「『多様性』は『最高』以外ありえない(生物学的な意味で)」という話をしたい。

前半は生物の教科書にも書いてあるような話から始めるので、高校で生物選択だった人はざっと流して、後半の〈なぜそれでもいがみ合うのか〉から読むと楽しいかも。


多様化の利点

有性生殖は多様化を促進するために存在する

環境に適応できないものが死に、適応したものが生き残る自然淘汰によって地球上の生物は進化した。
こう言うと「ほら、やっぱり悪玉は間引かないと!多様性なんてくそくらえ」という方に持っていきたくなるかもしれないが、ちょっと待って。
自然淘汰によって進化が起きるためには、前提として、その集団に多様性がなくてはならない。全員が同じような性質を持つ集団だったら、環境に適応できなくなった時、ただ全滅して終わりだからだ。

1個体で自分のコピーを作って増殖をする増え方を無性生殖という。無性生殖でも多様性が生じない訳ではなく、コピーミスが生じた時、元の個体と少しだけ違う個体が生まれ、コピーを何度も繰り返せばコピーミスの蓄積で多様化する。しかし、そのためには気の遠くなる回数のコピーをしなければならない。
一方、2個体の遺伝子を半分づつ混ぜて子を生む有性生殖なら、子供は必ず親と違う遺伝子の組み合わせを持って生まれるため(双子など例外はある)、無性生殖に比べて圧倒的に少ない世代数で多様性を増やすことができる。

有性生殖は多様化を促進するために存在する。
だから有性生殖を行う私たち人間が多様性に富んでいるのは当然のことだ。

「予想もつかないこと」に価値がある

初めから優秀な遺伝子を持つ子だけを生めばいいのにそうしないのは、「優秀」の基準が環境によって変わるからだ。

これを示す有名な例としては、アフリカの鎌状赤血球症がある。
父親と母親の両方から鎌状赤血球症の遺伝子を受け継ぐと、重度の貧血を起こす。しかし、片方の親から鎌状赤血球症の遺伝子を、もう片方の親から正常な遺伝子を受け継いだ場合は、貧血の症状はあるものの、普通に日常生活を送ることができる。
鎌状赤血球症の遺伝子は明らかに生存に不利に見えるが、この遺伝子を持っていると、なんとマラリアにかかりにくくなる。赤血球が壊れるスピードが速いため、赤血球中で増殖するマラリア原虫が増殖できなくなるからだ。
そのため、鎌状赤血球症の患者はアフリカ周辺のマラリアが発生する地域でのみ多い。鎌状赤血球症 - Wikipedia

何に役立つのか分からない「役立たず」を非難する人もいるが、何に役立つのか想像できる程度の個性を集めたところで、しょせん予想できる程度の変化に、予想できる程度の対応しかできない。
マラリアという死に至る感染症に、壊れやすい赤血球を持つという、一見「役立たず」な個性で対抗するという離れ業は、人間には到底思いつけそうにない。しかし実際は誰かがこれを思いつく必要すらなく、ただ最初に十分な多様性が存在するだけでよかった。

繰り返しになるが、どんな形質が生存に有利かは、環境によって変わる。今現在、アフリカではマラリアによって多くの人が命を落としているが、今後はきっと、ワクチンや治療薬の性能向上、インフラの整備によって、マラリアが恐ろしい病ではなくなってゆくだろう(そう信じたい)。
そうなった時、鎌状赤血球症遺伝子は本当に「役立たず」な遺伝子になるのかもしれない。

環境の変化という点では、現代はかつてない程変化の大きい時代なんだそうだ(私は過去は知らないけど)。今ある職業はどんどんなくなっていくし、新しい職業がどんどん出てきて、社会から求められる人物像は移り変わっていく。【平成から令和へ】平成の30年間で「なくなった仕事」「新しく生まれた仕事」は? | 丸介's ライフ (kotty5503.com)

こんな時代こそ「多様性」大活躍に決まっている。

「他人と違うから」いう理由で誰かを排斥し、多様化自体を拒むのは、可能性の芽を摘むことであり、自分で自分の首を絞めることになる。
個性に善玉も悪玉も存在せず、「予想もつかないこと」に価値がある。

……。
……なんて書いてみたが、多分、大体の人はそんな事知っている。
みんな仲良くした方がいいなんて当たり前だ。

なのになぜ、人はいがみ合うのだろうか?

いや、そもそも多くの生物は協力せず、同種内でも他者と競争し、自分だけが生き残ろうとするものだ。なわばり争いをし、自分の遺伝子を少しでも多く残そうと行動する。
だから実は、人々が「協力」という行動を当たり前に取っていることの方が、不思議なのだ。

なぜそれでもいがみ合うのか

『利己的な遺伝子』

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という有名な本がある。
タイトルから、遺伝子は利己的=生物は利己的、という内容だと誤解されることがあるが、実際は「利己的な遺伝子を持つ生物がなぜ利他的に振舞えるのか」を書いた本だ。

ドーキンスは数理生物学という手法で「協力」という行動が生まれるメカニズムを研究した。この本では沢山の事例が紹介されているが、ここでは「囚人のジレンマ」のモデルを紹介する。

このモデルでは、協力と裏切りを簡単なゲームに落とし込んで考える。
AとBの二人のプレイヤーは、「協力」と「裏切り」のカードを持っていて、どちらかを一斉に出す。
二人とも「協力」を出した場合は二人とも5点。
どちらかが「協力」、どちらかが「裏切り」を出した場合は、裏切った方だけが10点で、協力した者は0点。
二人とも「裏切り」なら、二人とも0点。
得点が多い方が勝ち。

括弧内は(A, B)の得点

このゲームで相手に絶対に負けないようにするためには、「裏切り」のカードを出すしかない。「協力」を出せば、引き分けか負けしかないからだ。
これでは協力という行動は生まれない。

しかし、このゲームを一回ではなく、何度も繰り返すと考える。
さらに、多数の個体からなる集団を考えて、自分と相手だけでなく、最終的には集団の全員で点数を比べる。

こうすると、二人とも裏切るだけでは点数がずっと0点なので、集団の中で負けてしまう。しかし、安易に協力すれば自分の相手に負けてしまう。
どんな戦略を取れば一番勝率が高いかをシミュレートすると、まずは協力のカードを出して、相手が裏切ったら、次は相手が協力するまで裏切りのカードを出し続けるのが最適解となるそうだ。
自然淘汰で弱いもの(得点が少ないもの)が死に、強いもの(得点が多いもの)が数を増やしていくと、集団内でこの戦略を取る者が増える。この戦略を取る二人が出会えば出す手はずっと「協力」となる。
こうして、継続的な協力が生まれることができる。

協力が生まれることができる、という回りくどい書き方をしたのは、ゲームの得点設定によっては、先ほどの戦略が必ずしも最適解にならないからだ。
裏切られたときのリスクが大きすぎたり、ゲームを何回行うかの上限が決まっていたりすると、また結果も変わってくる。

それでも、自分の得点を最大化したい利己的な遺伝子を持つ生物から「協力」が生まれる可能性が示された事が重要で、おそらく生物の歴史の中では、条件が揃って、協力が発生したことが何度もあったと考えられる。

『協力する種』

『利己的な遺伝子』では生き物の協力関係をシミュレートしたが、『協力する種』は人間がどのようにして非常に高度な協力行動を進化させてきたかの研究をまとめた本だ。著者らは数理生物学の手法に加え、ヒトが実際にどのような行動をとるのかも調べている。

例えば先ほどの囚人のジレンマゲーム。参加者を集めて、繰り返しではない、一回きりの囚人のジレンマゲームをさせると、ほとんどの人が「裏切り」を選ぶらしい。まあ、理に適っている。
しかし、このゲームに「後出し」というオプションを付けると、面白い結果になる。
一方が先にカードを出して、もう一方がそれを見た後に出す手を決められる場合、(「裏切り」に対して「裏切り」を出すのは当然として)、相手のカードが「協力」の時、後攻の人の多くが「協力」を出したのだという。
また、相手が「後出し」で自分が先にカードを見せなければならない立場の場合も、自分が「協力」を見せれば相手も「協力」を出すと見越して、「協力」を出す人の割合が少し増えたのだという。
このことから、人間は自分の利益を減らして協力することは惜しまないが、一方的に相手に搾取されるリスクをとても嫌うと考えられる。

さらに、「公共財ゲーム」というのがある。このゲームでは、参加者各自に1ドルが配られ、参加者はその1ドルを「公共財ボックス」に入れるか入れないかを選択することができる。「公共財ボックス」に集まったお金は5倍され、全員に平等に分配される。これを10ラウンド繰り返す。
自分の利益だけを考えるなら、ボックスに1ドルも入れずに公共財をもらうのが一番なのだが、全員がそれをすると10ドルしか手に入らない(全員が全ラウンド協力すれば一人50ドル得られる)。
このゲームの協力率は、最初のラウンドでは非常に高いが、公共財ボックスにお金を入れない「フリーライダー」がいると、急激に下がってゆくのだという。これは「囚人のジレンマ」ゲームで見られた一方的な搾取を嫌う傾向に似ている。
さらに、ここに「利他罰」制度を組み込むと、また様相が変わってくる。罰のある公共財ゲームでは、参加者は1ドルを支払って他のプレイヤーに3ドルの罰金を支払わせることができる。この制度を導入すると、プレイヤーは最終ラウンドまで高い協力率を保持するようになった。これは罰の存在が協力の存続に重要であることを示している。
さらに、プレイヤーが自分がどれだけの罰を受けているかを確認できないようなルール、つまり罰を与える事がフリーライダーの抑止につながらない時でも罰を与える行動は見られ、人は罰を与える行為自体によって快感を得ることも分かった。

ちなみに、フリーライダーにどの程度罰を与えられるかは地域差があって、日本人は罰を与える行動が多く見られるのだそうだ。「私が損をしているのだからお前も損をすべき!」(中野 信子,ヤマザキ マリ) | +αオンライン | 講談社(2/5)


まとめ


利己的な遺伝子から利他行動が生まれ、人を罰する快感が協力を発展させた。

「きれいはきたない、きたないはきれい。」だ。

生物の進化は、一度方向付けが決まると限界までそちらに進むことがままある。尾羽がきれいなオスがモテ続けた結果、クジャクの羽はあれほど大きくなったし、アザラシは泳ぎに特化して魚みたいな手足になり、ダチョウは走りに特化して足だけムキムキになった。
ヒトでは「協力」をする方向に進化が進み、高度な社会を築いた。

罰を与える事はコストの掛かる行為で、本来は、皆の取り分を増やす「利他的」な行動である。しかしそれでは、コストを払って罰を与える動機が希薄で、フリーライダーが発生して協力関係が壊れやすい。
だが、「多様性」によって、人を罰することに快感を覚える変な個体が誕生すると、罰が積極的に与えられるようになり、その集団の協力関係は強固になる。
集団単位では、より強固に協力をする方が強かったので、他者を罰することに快感を覚える「いじわる」個体が多くいる集団が勢力を伸ばしていった。

こうしてヒトは協力行動を進化させてきたと考えられる。

動物の行動を俯瞰して眺めると、「フリーライダー」も「いじわる」もただそういう性質の個体に過ぎないと思える。善玉も悪玉もない。

より「いじわる」な個体は他者を罰することでより多くの快感を得るので、人の些細な欠点を見つけて罰したがるかもしれない。罰すべき罪人が身近にいなければ、マジョリティと違う事を理由に罰を与えたがるかもしれない。お前は足並みを乱したとか、そんな理由をつけて。

あるヒトの行動が、どんなふうに進化してきたのか。なぜその行動が環境に適応的だったのか。数理生物学的に考えてみると、生きやすく…はならないけれど、まあ、考えないよりはちょっと面白いかなと思う。

私は多様性を否定するのには反対だが、多様性を「促進」しようという言い回しにも違和感を覚える。多様性は人間がどうこうできるものではなく、在るものが在るだけだからだ。

ただ、地球上の生物が絶滅することなく今日まで続いてきたのは、多様性のお陰であることは間違いない。


補足
この記事では、分厚い本2冊の中身をつまみ食い的に拾って書いたので、細かいところを端折ったりもしています。もっと知りたい人は本を読むといいと思います。……とは言いつつ、分厚いし数式とか沢山でてくるので、「公共財ゲーム」や「囚人のジレンマ」で検索すると、実はこの記事よりももっとちゃんとまとめた読みやすいサイトがでてきますb


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?