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どうしても止められない事

また大切な人が生を全うしようとしている。
永遠なんて無いと何度も言い聞かせている。
自分もやがて朽ち果てていく、生命体は原子へと還っていくことが自然の原理だと。
頭で理解していても、同じ世界にいられない事がこの上なく寂しく感じてしまう。
どうしようもなく人が大好きで人に依存しているということだ。

義叔父

書き記さなければ、この事実はどこにも残らないし残せない。
そもそも、見方によっては不純な愛情を肯定させるだけのものだと批判を受けるかもしれない。
もし不快な思いをさせたとしたらいくらでも謝らせて。

義叔父の存在は、叔母の旦那さんだと思っていた。
僕が生まれる前に母方の祖父は亡くなり、墓石を依頼したところから始まったんだと思う。
物心ついたころには叔母の家に遊びに行くと義叔父さんが来てくれた。

今でも思い出す。
両親は共働きで当時叔母の家から2㎞ほどのところに住んでいた。
3歳ぐらいの僕は無性に祖母や叔母が待つ家に行きたくなり、1人でキッズカーに乗り行った。
当時最速の乗り物だと思っていたから。
向かった先には義叔父もいて。
よく着たなーと頭を撫でてもらった覚えがある。
寛容な義叔父が大好きだった。
当時の父とは違って、否定をすることなく肯定してくれる義叔父から優しさを教わった。

とある日、公園でブランコの立ち漕ぎがしたいとせがみ、義叔父と兄と3人で向かった。
一緒に乗ってどうやるかを教えてもらった。
手を取りながら、こうやって勢いをつけていくんだぞ・・・。
楽しさを覚えた僕は、一人で乗りたいから、後ろから押してと頼んだ。
押しては前に行き、押しては前に行きが重なり、大きな弧を描いた瞬間に恐くなり手を離した僕は、宙を舞った。
それ以来高所恐怖症になった。
高いところに立つと自分が飛び出すイメージになり、フワフワするのは義叔父のせいだ。

春、夏、冬の休みは必ず叔母のところに行けば義叔父がいて。
動物園、水族館、遊園地、日帰り旅行など、子供らしい遊びは全部義叔父と叔母に連れて行ってもらった。
何処が楽しいとか、子供ながらに話せるようになったのは2人のおかげ。

今思えば連日での遠出の旅行は無かったこと、
寝ているうちにどこかへ帰る義叔父の姿も思い出す。

小さいころは義叔父の会社の石を真剣に学ぼうとしたり、働きたいなんて思ったりして。
なんでも包容してしまうごつごつした大きな手が大好きで、あんな手になりたいと思って。

大事な進路を決めるときも。
起業を決めた時も。
相談するのは義叔父だった。

祖母が亡くなった時も、叔母が亡くなった時も、兄が亡くなった時も、
胸を貸してくれたね。

なんで俺より先に逝ってしまうのかと泣いてくれた義叔父。
それでも生きていかなければいけないと教えてくれてありがとう。

いつから気づいたのだろう、本当の家族ではない事。
いつからだろう、それ以上の絆があることに気付かされたのは。

愛しくて愛しくてたまらない。

不倫を肯定も否定もしない。
当人たちの感情があって成立してしまっているものの、確かに家族という大事な大事な繋がりを蔑ろにするべきではないと思う。
だから決して良いとは言い切れない。
義叔父のすべては肯定してはいけないのかもしれないけど、叔母との関係が絶たれた後もずっと息子のように想って、また僕は父親のように想って接してきたことに変わりない。
恋愛感情だけで成立していない事があることを知った。
だから不倫報道を見るたびに語るべきではない人達の声に嫌気がさす。
当人たちのことだから。

否定されかねない事をずっとやり続けた義叔父が大好きだ。
僕はこれを無償の愛だと思っている。

同情だとしても、救われている人間がいるという事実は残る。
綺麗事だと紛糾する人間より余程綺麗だよ。
このことから自利利他の心を理解した。

78歳になり、人工透析を続けることから血栓が出来破裂寸前だったという。
身体の痛みが極限まで達する中、義叔父は生きるという選択をしなかったと当人から聞いた。
生死をさまよったようだが、今は術後電話で話せるところまで戻ってきたと、話を聞き知った。
本人以上に家族は生きてほしいと思い、手術を選択したのだと。
その話を聞き当然だと思ったこと、その意思決定に参加できず羨む自分もいた。

本人が死を受容していることから、何も出来ることは無いと。
何もしなくても良いし、何も求めない。
心配かけてごめんなと謝られた。
僕は兎に角、失った時を知らない恐怖を恐れ、どうにか息子さんとの連絡を取れるようにするのが精いっぱいで。
あとはいつも大好きだったお店の話や義叔父の武勇伝を時間が途切れないように話した。

知ってから毎日連絡をしている。
兄の時のような後悔はもうしたくないから。

今僕のような状況の方は沢山いると思う。
コロナは病としての対策は取れつつあるものの、病院に面会などにいけない状況もあれば、家族ではない僕においては会える機会は義叔父の回復を待つしかない。
か細い声に心が痛くなり、とても辛いのだが本人は痛みと苦しんでいる。
電話をしている間は泣かないと決めているから、どんなことも受け入れて話している。

その分泣かせてくれる場所がある。
それは家族、仲間だ。

以前にも記述したが、稀有なコミュニティを紹介したい。

【キラキラ荘】


というところ。
もともとあるサロンから波及したコミュニティではあるのだが、
たった五か月、
しかもコロナ期の中オフラインで会うこともままならないのに僕は支えられている。
出会わなかったら耐えられただろうか。
出会うまでの僕もまた死を受容し、大好きな人の死を経験するなら先に死にたいと願っていた。
無駄に生きるなら熱く死にたいと常に心にあるし、その願望は今も同じ。
ただ僕の心の半分以上を占めていた、兄、叔母、祖母、祖父を失っても、
生きていく理由が心の半分以上を埋めてきている。
それは家族やこのコミュニティだと言いきれる。

苦しいときは助けてくれ、楽しいときは一緒に笑い、ダメな時は叱ってくれ、挑戦したいときは一緒に考えてくれ、哀しいときは泣いてくれる。

傷跡は決して消えないよ。
けれどね、弱くても良いと、それが自分だって言ってくれるところが家族でありキラキラ荘なんだと思う。

もしも今同じような状況で苦しんでいる方がいたら入ってほしい。
医者でもないし、専門的なことは分からないし、ケアできるかどうかはわからない。
けど僕は自信を持ってお勧めします。

壮大なステマ疑惑は拭えませんが、義叔父への想いをおもいっきり綴った。
あっちでも僕が元気にやってると話の土産になるよう誇れる人との繫がりを持ってもらって。

終末期を健やかに過ごしてもらえるよう、しっかりと向き合っていきます。

どんなに辛くても歩みを止めてはいけないと、教えてくれてありがとう。


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フローリスト堀祐次郎
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