自宅まであと100メートルで「死ぬかも」

 いまここで死ぬかもしれないと、一度だけ思ったことがある。
 30年前の10月、大型台風が到来した。水害で有名な地域に住んでいるわたしは、帰宅の困難さを予測し、勤務先の会社を早めに出てきて最寄り駅に降り立った。
 改札を出た時ですでに道路は冠水していたが、いつものことだ。当時ひとり暮らしを始めて数か月。狭いながらも自分のお城までは駅から徒歩15分だった。
 歩いているうちに水深はどんどん深くなり、膝から太ももまで水に浸かってしまった。10月で水も冷たく、日が落ちるのも早い。街灯もあまりない頃だかった。5時を回ったばかりなのに、どんどん暗くなってくる。
 救いは、もう雨が降っていないことだった。バッグに水が入らないように脇に抱え、自宅まであと100mほどのところで、水が腰の上まで達した。
 バッグにはカギが入っている。親から独立したばかりのひとり暮らしで、カギと財布の入ったバッグをなくすわけにいかなかった。しっかりと抱え直した。

暗さが深まってくるなか、四方八方腰まで泥水プール

 だが、濁った水のなか、どこまでが車道でどこからが歩道なのかもわからない。「ここでつまずいて転んだら起き上がれず、日が暮れたらそのまま死ぬ」と思い始めた。これ以上水位が高くなったら歩けないと、はじめて恐怖を覚えた。
 四方八方どこを見ても「水」。巨大な泥水プールに腰まで埋まっている。水圧で陸上を歩くようにはいかない。「ここから歩道か?まだか?」と足で探りながら、一歩ずつ水の中を踏みしめるようにするが、なかなか前に進めない。
 それでもなんとか自分の住む棟へ戻った。階段を数段上り、「あとは4階の部屋まで歩けばよい」と思った瞬間に、波のように安堵感が押し寄せてきた。この間、わずか1時間足らずであった。

昔から冠水で悪名高い地域

 思えば子どもの頃から、雨が降ると冠水する地域であった。小学生のときはこんなときゴム草履で登校し、草履をぷかぷか浮かべて遊びながら登校したものである。大人たちは「汚い」と眉をひそめたが。
 何度か引っ越しを重ねたがこの地域から離れることはなかった。よって台風が来れば冠水することはわかりきっていたが、あの年の10月に東京を襲った台風による冠水は別格だった。
 翌日は水が引かず、「家から出られない」を理由に会社を休んだ。冠水の様子を取材するヘリコプターが空を舞っていた。と思ったら友人から電話がかかってきて「テレビ見て! いま出てるよ!」という。
 テレビをつけてみたら、たしかに家の近辺が映っている。ああやっぱり、テレビが報道するくらいひどい被害だったのかと、改めて昨夜の恐ろしさを思い出して震えた。
 その後、川の放水路工事が完成してそれほどひどい冠水はなくなった。2015年にも大型台風が来たが、すぐに水は引き、大したことはなかった。

レベル4警報が鳴り響き……

 令和5年6月2日。久しぶりに「雨台風」が襲来した。「線状降水帯」という聞き慣れない語が何度も気象情報で流れ、「久しぶりに冠水するかも」とは思っていた。
 早朝にスマホが鳴った。「な、なにっ?」と飛び上がったら警戒警報である。「危険な場所から全員避難」、つまり川が危険水位まで来ているので全員避難、というレベル4だった。
 いまの自宅は5階にあるから、部屋の浸水を心配することはない。だが、この「スマホ警報システム」が始まってから初の「大雨」による警報だ。
 外を見てみた。案の定道路は冠水している。ああ、またか。久しぶりだなぁと思った。夕方には水が引けばよいけれど。
 ……と思っていたら、2時間後には水はすっかり引いていた。何度も繰り返された治水工事で、最後に完成した放水路が機能したのだ。
 雨も止んだので、同時に車と人が動き出した。

もう災害に弱い街ではない

 わが街のレジリエンス、なかなかすごいじゃない。災害に弱い街の汚名返上かもしれない。もう冠水をさほど心配することはない。
 ほんとうに回復が早くなった。これも40数年前から市長と市議会が治水工事を進めてくれたおかげである。はじめて市政に感謝した。

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