感覚とロジックの歴史(2)
(※ある研究所の内部報告に連載した論文。タイトル変更済。権利者の許可取得済。当該研究所の性質から検索は難しいかと。)
1.コンディヤックを読むために——時代遅れという認識の再考
前回は、エチエンヌ・ボノ・コンディヤック(Étienne Bonnot de Condillac, 1714-1780)というフランス啓蒙の世紀の哲学者について、ヨーロッパ近代の歴史におけるその立場を概説した。今回は、彼の著作、特にその主要の2タイトルを紹介したい。それも、できるだけこちらの主張を抑えて、また外付けの説明に頼ることなく、コンディヤックの論述のリズム、息づかい、彼自身の視野のコーパスを伝える紹介をしたい。両方とも大著なので一度でできない可能性もあるが、その場合、来号、来来号にまわしたい。コンディヤックの思想はそのデモンストレーションのプロセスの中にあり、最も要約できない種類のものだからである。
まず、『感覚論(Traité des sensations, 1754)』(注:底本としては次のものを用いた。L’Abbé de Condillac, Traité des sensations. 2 vol. (T. I & II), Londres & Paris, 1754. 以下、フランス国立図書館サイトにある初版第一巻。)これは、18世紀中盤において『ヌーヴェル・エロイーズ』に並ぶベストセラーの一つとなった感覚主義哲学の古典である。「人間の内面を持った大理石の彫像」に五感を与えつつ、その発見するものを詳述するという寓話形式を通して、我々の思念や情緒がすべて「感覚の変形」であることを証明する。その書きぶりは「人間精神の自然博物誌」と形容するのがぴったりで、コンディヤックは心情的、あるいは社会的にルソーよりもビュフォンに近いところにいたのではないだろうか、と思わせる。
次に、『感覚論』より20年以上後のもので、初学者用教材として書かれた『論理学、あるいは考える技法の最初の一歩(La Logique ou les premiers développements de l’art de penser, 1789)』(注:承前。Id., La Logique, ou les premiers développements de l’art de penser, 1789. 初版をダウンロードするにはこちら)。1780年、作者の死の年に初めて刊行され、1789年に再版された。初学者の教科書という体裁にも関わらず、きわめて高度かつ先鋭的な認識論を繰り広げている。
ここで、コンディヤックを読むための「窓」について述べたい。
哲学であれ、芸術であれ、特に思考という非物質的な領域に属する仕事、それが過去のものであったり、他文化のものであったりすればなおさら、そういた仕事を読んだり、鑑賞したりするには、一定の主観的アプローチの視点と動機(ここで「窓」と呼んだもの)が必ず存在し、それを自覚しているか否かでそこから生まれる邂逅の成果が大きく変わる。人の手による産物には、いかなる領域、種類のものであっても、絶対的ないしは一般的価値などない。我々が何らかの文化産物から少なからぬ影響、あるいは感銘を受け、あるいはそこに他にない価値を認めたということは、そこにすでに道筋ができていたからである。すでに主観的な視点が定まっており、「窓」が与えられていたからである。文化産物の価値は、そのもの自体の価値の反映であると同時に我々の「窓」との関係の反映である。その「窓」について自覚することは、知的誠実さという観点からも最も重要な義務であり、また対象となる文化産物の本来の価値を推し量るためにも不可欠な行程である。
筆者自身は、コンディヤックを、革命期フランスの臨床哲学者の文献から、そしてそこから遡って当時の医者に共通だった教育の基盤としての「イデオローグ」という知能集団の著作を発見した。よって、以下紹介されるコンディヤックは、フランス式「合理思考」の一般的体系などではなく、AIの時代のトライリンガルである筆者と西洋の合理思考との関係、そして西洋近代の合理思考をさらに現代化しようとして頓挫したイデオローグの「合理性というハイパーヒューマニズム」への志向が重なったところに生まれる、瞬間の幻のようなものであることを、ご了承願いたい。
しかし、幻影とは言っても、歴史的な枠組みはちゃんと踏襲しなければならない。「革命期」と言ったが、フランス史における「革命期」とは、1789年の革命の発端となった事件から1792年の第一共和制の樹立、そして1794年のテルミドール政変、その後の総裁政府、若きナポレオン・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデターに続くナポロレオン執政政府、そして第一帝政の前夜までと、およそ15年の期間のことである。
「革命期」後半において、19世紀まで残すところ数年という時、あらゆる側面において新生フランスの再編成を担った学者・執政者の集団、それが「イデオローグ」であった。これは前回見た通りである。彼らは生理学者、地学者、精神医学者、文法学者、法学者、など様々な領域の研究で知られていたが、コンディヤックの「分析」という方法によって結びついていた。
さて、イデオローグたちの関心が最も強く向けられたコンディヤックの著作は何であっただろうか。それは有名な『感覚論』ではなく、死後に刊行された『論理学』、そして『計算の言語(La Langue des calculs)』であったらしい。『論理学』と『計算の言語』は、コンディヤックが、その前半生で作り上げた「感覚主義」の明証のパターンを、人間の知的営為を導くにふさわしい「よくできた言語(une langue bien faite)」についての探求にシフトさせたものである。この晩年の教育マニュアルの本質は「言語」論なのである。イデオローグたちが感応したのは、この「言語」観だった。
『感覚論』よりも紹介が長くなりそうな『論理学』の内容について、もう少し概観しておこう。端的に言って、ここでは人間の認識のあり方と「言語」の「作られ方」についての関連が、微に入り細にわたって記述されている。コンディヤックにとって「論理(la logique)」とは、「推論技法(l’art de raisonner)」、あるいは推論のプロセスのことである。このテキストではそれが繰り返し主張される。「論理」は「推論」であり、「推論」は「言語そのもの」であり、「言語」は「推論、つまり論理学そのもの」である、と。確かにトートロジカルではあるが、あながち円環的ではない、少なくとも説得力に満ちた論述が続く。終局、コンディヤックは「人の精神に自然に備わった推論の能力」を最も理想的に(つまり、18世紀的美学に従って、最もシンプルに、ナチュラルに)「表現した」ものとして、「代数の言語」を想定する。つまり、記号と定式をそのまま語彙と文法規則に置き換えた「言語」である。語彙とその複雑な組成の列挙ではない、記号の網の目である。
さて、これが哲学史の授業ならば、「コンディヤックはまずロックの経験主義を継承し、その先にライプニッツの代数言語論(記号言語学)を見つけた」といった便宜的説明で十分かもしれない。一方、そのような都合のいい図式にイデオローグたちが少しなりとも関心を持っただろうかと問えば、もちろん答えはノーである。
例えば、医学はイデオロギーの中心的学問領域であったが、彼らは何よりも為政者・立法者として「社会の医者」という立場を自認していた。18世紀末のフランス社会は、人類がかつて経験したことのない変動を経験していた。イデオローグたちの背後には、一夜にして崩れ去った中世より続くアンシャン・レジームと教会の権威の瓦礫があった。その前方には、まだ見ぬ19世紀があった。そこでは「大衆」という巨大な未知の人類が主役を演じることになっていた。彼らがコンディヤックを「必要」としたのは、この啓蒙の哲学者の感覚主義が貴族的な唯物論、無神論、現世主義を踏襲するものであったからではあるまい。それよりむしろ、その感覚主義の地平に現れた「言語」論が新しい人間の紐帯の可能性を示すように思われたからだろう。
イデオローグはコンディヤックを通して、思念と記号の完全なる等価性を原則として構成される「言語」(「よくできた言語」)というもの、つまり新時代の「人間」の共通の基盤となるような理性と感性の体系を夢見た。イデオローグの目に映ったコンディヤックの「言語」は、17世紀の「普遍文法」論を19世紀の「システム」論に変換する鍵であったと言えるのではないだろうか。
彼らがコンディヤックの「言語」に見た希望も、またその虚しさも、我々にとって無関係ではない。なぜなら、前述した通り、ヨーロッパ史の時代区分によれば、18世紀までは「過去」であり、19世紀以後は「現代」であるとされるのだから、我々のいる21世紀はまだ19世紀の一部だからである。
最後の、そして一番面白くない確認をしておこう。
「現代」というキーワードが出たところで、誰もが賛同することであると思うが、忘れられた過去の思想家や高邁な文化人の「再読」が促されるところ、必ず当該文化人の「知られざる現代性」の発見を促すという暗黙のメッセージが出され、受け取られている。いや、忘れられた人に限らない、「今」に取り憑かれた我々は、たかが数十年前の提言や言説にすら「歴史」を感じる。そして、現代人の果てしのないナルシズムによって、自分たちの関心を一瞬でも惹くに値する過去の人間ならば、きっと過去の時代における選良、つまり、すべてにおいて過去よりも勝れた現代に置いても遜色のない人であったに違いない、と考える。
その見方によれば、再発見された「歴史的現代人」(ちなみに宗教者はこの中に入らない)はあたかも彼ら自身の時代におけるSF作家のような風貌をまとうことになる。我々はこのようなコピーをあまりにも聞き慣れてはいないだろうか。ライプニッツやヴィトゲンシュタインの「驚くべき現代性」、「早く生まれ過ぎた南方熊楠」、「遥か先の未来を見越していた渋沢栄一」などなど。
しかるに、その暗黙のメッセージはここでは意識的に払拭しておくことが重要である。なぜなら、コンディヤックは,少なくともイデオローグの目に映った彼の「言語」論は、現代、もはや科学的に有効な土台の上にないからである。
コンディヤックがその代名詞であるようなフランス啓蒙の世紀の「感覚主義(le sensualisme)」哲学は、人の内面生活はすべて外界の刺激への生存本能の反応から生まれるものであり、知的思念も情緒も感情もすべてはもともと快不快の感覚に過ぎず、身体の組成にもともと備わった機構が何らかの役割を果たすとしても、それは単なる容れ物に過ぎない、人格のほぼすべては経験によって作られるという考え方である。
デカルトの「生得観念(les idées innées)」を真っ向から否定するものであることは確かだが、同時に「感覚と記憶(la sensibilité et la mémoire)」という現象に収斂されるあらゆる「魂の能力(les facultés de l’âme)」についての解剖学の哲学的意義も否定する。18世紀の経験主義者の中で、コンディヤックは際立って知的に一貫している。経験こそ人間存在のアルファでありオメガであるという信条は、コンディヤックにおいては知的・合理的信条であり、政治的信条ではない。
『論理学』第9章を読んでみよう。まずこう始まる。
彼が「間違った仮説」と呼ぶのは次のものである。
そしてこう続ける。
彼の言いたいことはこうである。「原因」をすべてに求めるのは愚かしいことである、人間の五感に「結果」しか映らないならば、その結果を知識の原因とし、土台とすべきであろう。「経験と何の関係もない知識について思弁を巡らせることが好きな人たちがいる。神経組織の働きなどといった現象の説明はそのような人たちに任せておけばいい。」(Ibid., p. 82.)
コンディヤックの主張は論理的に一貫しているばかりではなく、賢明であり、ある意味正しいとも言える。少なくとも教育者としては、理想的な態度である。一方で、この引用の直前にある次の発言を聞けば、なぜ彼の感覚主義が、18世紀を超えて生き延びなかったかが理解されよう。
コンディヤックはガレノス由来の「動物精気」生理学による生命現象の説明を斥けたのみならず、感覚器官の働きについての解剖学も斥けた。同じ「経験的・自覚的に誰もが自らの意識において確かめることができないものは、知識にとって無意味であり、無価値である」という理由で。ともあれ、これが彼の最終的な立場であり、イデオローグたちが引き継いだ「分析」手法の根本的な態度をなすものであった。また、18世紀末から19世紀初頭にかけてパリの大学を中心に隆盛した臨床医学の信条でもあった。例えば、パリ学派の天才、30歳で夭折したグザヴィエ・ビシャ(Xavier Bichat, 1771-1802)は神経機構について歴史的な記述を成し遂げたが、一度も顕微鏡を使用しなかったことで知られている。コンディヤックの弟子たる革命期の学者にとって、五感が捉えないものを信じることは許されなかったのである。(そしておそらく、それがパリ学派衰退の理由でもあっただろう。)
19世紀中盤の大脳生理学はすでに感覚主義からはほど遠いところにあった。それはむしろ「動物精気」の現代的解釈へ向かっていた。その後、20世紀の心理学とニューロサイエンスは、ますます「意識外」の決定論の科学言説化を進めてきた。文学までもが古典主義時代の「意識の優位」に逆らった。そう、コンディヤックは、その人間の意識においても、感覚主義的な方法論においても、さらには「言語」観においても、「時代遅れ」なのである。19世紀初頭においてすでにそうであったし、今後はなおさらである。現代の「知性」についての世論を見る限り、意識を中心に据えた言語学や心理学が再び浮上する日はもう来ないのではないかと思われる。
ではなぜコンディヤックを、イデオローグを読むのか。関心すら持つ必要があるのか。そこに何らかの先見の明や先鋭的なもの見いだすことができないのならば。そのように考えることは、今しばらく待ってもらいたい。忘却は二つのことを意味するということを思い出してもらいたい。つまり、忘れることは何かを忘れるだけではない、忘れたことを忘れることでもある。無意識を暴き出し、分子やウィルスすらも可視化することに成功した現代の知性の視野から常に失われ続けているものは、まさしくそうした忘却の動力である。
『感覚論』の冒頭でコンディヤックが言うように、「誰一人、生まれた時の何も知らない状態を再び取り戻せる人はいない。何もない状態はその跡を残さないから。」( Condillac, Traité des sensations, t. I, ed. cit., p. 1.)しかし、時代遅れのものの存在は忘却が忘却したものを思い出させる。それこそが、そうしたものの無二の価値である。
また何よりも、コンディヤックのテキストは心地いい。テクノロジーの支配にどこかで疲れた我々の心は、その明澄で楽観的な人間主義にしばし憩いの場を見いだすと思う。
2.『感覚論』(1754年)
『感覚論』は「人がどのように自ら考えることを学ぶか」ということを明証した、教育フィクションである。すべての知識の源泉には感覚がある、とコンディヤックは言う。「五感を別々に吟味し、それぞれが与えるそとの世界についての観念をはっきりと捉え、それらの観念が互いに協力して人を導く様子を、段階を追って観察すること」が本書の目的である、と。
彫像が現れる。匂いを嗅ぐ力のみを備えており、他の感覚は閉じている。
彫像は、初めて与えられた感覚に集中する。その精神状態を「注意(attention)」と、コンディヤックは呼ぶ。違う匂いが与えられる。彫像はいい匂いを楽しみ、悪い匂いに辟易するという「快楽(jouissance)」と「苦痛(souffrance)」を学ぶ。それらが別々に与えられたのでは、快楽を欲し、苦痛を忌避するという「欲求(désirs)」は生まれない。欲望が生まれるためには、一方が他方の反対であることを知る必要がある。
コンディヤックの論述の最初の部分はこうしたものである。最初の匂いが与えられる(薔薇かカーネーションの花)→彫像はその匂いを何度も嗅ぐ→受動的な注意力が嗅覚の中に生まれる→二度目の同じ匂いによってこの注意力は能動的なものとなる→能動的な注意力は、記憶となった時に、現在の匂いと過去の匂いの間に分裂する→二つの匂いの比較がある→判断が生じる→判断とは「これはあれではない」という区別の意識に他ならない。彫像は二つの別に花の匂いを区別し、一つの花の匂いの中にも弱い強いを嗅ぎ分ける→比較と判断が何度か行われるうち、彫像はますますそのプロセスに馴れ(習慣)、他の匂いに対しても同じことが行えるようになる→他の匂いで同じ経験をすると、別の習慣がつく.....といった行程である。その間、彫像の精神は「注意(attention)」と「驚き(étonnement)」という状態を知る。これら一連の行程が繰り返されるうち、記憶は複雑になってゆく。
ここに感覚主義という方法の最も基本的な二つの性格が現れている。まず、段階を追った論述であるということ。それから、物理的現象の説明から非物質的、精神的な現象にレベルを上げて行くことである。目の前にないものを対象とする「記憶」の「能力(faculté)」が持ち出された時点で、彼の論述は軌道に乗ったと言える。「実際、感じているのは魂なのですから、身体の現象を伴うかどうかということは問題ではありません。」欲求が生まれ、記憶が洗練されて、思い出しているという意識もないままに判断が確実になっていく。身体的現象としては、そうしたプロセスが行き着くところ、個々の「欲求」が激しい「必要(besoin)」となり、精神的現象としては「観念・意識(idées)」が「感情(émotions)」に変化する。「感情」を伴った「観念」は、ある五感の情報についての持続的な表象を生む。これが「知識(connaissances)」である。「知識」は、「必要」と「感情」の交差するところに形成される。同時に、「記憶」は「想像力」でもあることを明らかにする。
「想像力」が発動したとき、彫像の内面の活動はますます非物質的な対象を増やして行く。またそれら非物質的対象も、関連性の強いものから弱いもの、非常に離れた対象の比較に発展する。しかし、想像力は無秩序ではない。記憶の変形として、記憶の秩序、つまり原初の感覚的経験の秩序によって組織されている能力だからである。想像力もまた、記憶と同じように「観念の鎖」なのである。(Ibid., p. 62.)
「嗅覚」一つを武器として、コンディヤックの彫像はこのように自分自身の様々な能力を発見してゆくのであるが、その発見の最後のものは、一方で「愛、憎しみ、希望、怖れ、意志(amour, haine, espérance, crainte, volonté)」という「情念(passions)」であり、他方に「知識」がある。コンディヤックは、デカルト『情念論』の「基本情念」の概念を踏襲しているようである。加えて、彼は「意志」と「知識」をその延長上に示している。デカルトが注意深く疑問に附した部分である。
コンディヤックの「情念」についての説明を聞こう。非常に秀逸であると同時に、細やかである。
また、情念の最大の源泉は情念そのものである。換言すれば、相反する二つの情念の相克である。カトリックの世界によく知られたフラストレーションの図式をデカルトがきわめて合理的に解き明かしたことを思い出すが、コンディヤックもまた、五感の情報と意識の状態(感情)をまったく同質のものとして描きながら、同じ説明を与えている。「記憶」が感覚経験の比較を通して「欲求」と「必要」という同時に身体的であり精神的である状態を作り出したならば、「習慣」はその状態を固定化し、人格の形成につながる欲求のパターン(あるいは「観念の鎖」)を設立するが、こうした心身相関のさまざまな現象の最大のものが「情念」である。
こうして、匂いだけが外との関わりであるような「彫像」が精神機能を発展させて行く様が、水も漏らさぬ論述の中に繰り広げられる。彫像の成長は、まず感覚の洗練によって、次に精神現象への注意力によって、次に情動の目覚めによって、最後に「個別の事象の観念から一般的・抽象的な観念を導き出す」というきわめて知的な成熟によって、観察される。「言語」の必要があるとすれば、この場所なのであるが、『感覚論』のこの段階では、まだ言語の話はない。
さて、「一般的・抽象的観念」の最も基本的なものには二つある。空間と時間である。コンディヤックはそれを「広がり(étendue)の観念」、および「時間(durée)の意識」と呼ぶ。果たして嗅覚しかない彫像が空間や時間といったものを意識できるものだろうか。
時間の観念が持てない、ということは、彫像の成長にとってもっと重要な結果を招く。それは、次の精神的ステップである「自我」の目覚めがあり得ないということである。
これが「嗅覚」に限定された感覚的存在の限界である。コンディヤックはこの後、同じ方法で、「聴覚に限定された彫像」、「視覚に限定された彫像」の成長の過程を描いて行くが、この啓蒙の世紀の哲学者があらゆる前任の経験主義者と一線を画すのは、「触覚」という項目に入ったときである。