『完全無――超越タナトフォビア』第七十二章
たとえば、宇宙に遍満する無数の粒や波、それらに最低限の大きさや振幅があろうとなかろうと、何かしらの働きを成す現象としての粒や波は、生命としての存在者が死して無数の散開存在者となり、分裂的に漂う「可能性の風」として新たに生成するために、穏やかな顔で宇宙に待機している間、闇に潜める不可能性から自由に振舞うべき寵児として、つまり、生成し生成されるものとしての主体的存在者として生まれ変わるために、宇宙の中でエネルギーを得るために、宇宙の摂理と何らかの交感に酔い痴れている最中なのかもしれない。
現宇宙に生命体として、すなわち非遺体として現存在する存在者のことを、わたくしはここで、「非遺体者」と名付け、遺体(それは、死せる無数の散開存在者への出発点でもあるのだが)としての現存在であるところの存在者に関しては、「遺体者」と名付けることとする。
「遺体者」とは荼毘に付された後の、あらゆる分裂した存在者のすべてを含めることとする。
「非遺体者」にとって死者とは、その「非遺体者」が死者となるまでの間は、確然と「遺された存在者」として定義付けし得るからである。
さて、「非遺体者」としてのあなたは、あなたの二親(ふたおや)が二親として決定的に成立するためのあらゆる存在論的・因果論的要件を、あなたという唯一無二の存在者であると目されているところの生命体に紐付けることが可能である限りにおいて、その二親の子と呼ばれることができるだろう。
だがしかし、運命の糸のすべてがあらゆる「非遺体者」間においても、「非遺体者」と「遺体者」との関係においても、「遺体者」間においても、すでに世界の世界性としての完全無-完全有に紐付けられてしまっており、すでにしてそれらの糸を手繰り寄せてしまっているのだとしたら、親と子とのリンクは正統な意義を持ち得ない、ということにならないだろうか?
前-最終形真理を超える、ということは、そのような認識のシミュレーションを自らに強いる、ということであり、あらゆる生き物の血統的歴史、進化論的歴史を根本から覆す勇気の、その匙加減を存在論的に要求される、ということでもあるのだ。
ここではしかし、可能な限り、前-最終形真理の地平に降り立って思惟を発展させることが先決でありベターでもあるわけだから、その地平の圏域内を漂白しつつ語ることとしよう。
まずもって、生き物という存在者というものは、すべからく因果も非因果もいっしょくたに手繰り寄せてしまっている欲張り者である。
あなたという主体的存在者は、確率論的に真実とされ得る因果の部分だけに取り込まれる。
世界の時間発展・空間発展という装置は、人間的スケールの知を包括する現象界という場においてのみ最大の効果を発揮するのだが、その装置が機能するやいなや、あなたというアイデンティティは、自然発生的でありながら、決定論的に、つまり、あなたという主体の意志の有無に関わらず、あなたを束縛する全時間的・全空間的な存在の刻印として、あなたに識られることもなく、あなたに焼き付けられるのである。
時空発展の圏域において、すなわち人間的スケールの知であるところの認識論的推論においては、あなたという生き物は二親へと逆流因果的に回収されるべきであるということは言を俟(ま)たない。
あなたの誕生に対するすべての責任(それは膨大な数の因果関数における変項の集合体となるであろうが)、ともかくそれは、あなたと二親とを家族的同一性のもとに内包するために存在するのだが、実はそれは、二親という二つの生き物に対する身体的・精神的・因果論的所業だけに、帰することのできないものなのだ、と言いたい。
要するに、二親の環境世界のぶつかり合いという身体的・精神的・因果論的交接のみに、あなたの誕生神話の動機を押し付けることはできない、ということである。
二親があなたを因果論的に血族として言い包(くる)めるためのあらゆる要件とは、二親の生活時空の圏域において、歴史的事実としてさまざまなかたちとして、この宇宙という現象界においてすでにして確定されていたのだが、それらの確定事項は、二親の身体的輪郭・精神的輪郭という基幹要素を成すところの身体論的アイデンティティ(それは自己と外界との境界線を持つ)と、精神論的アイデンティティ(それは自己と内界との境界線を持つ)のみに依拠しているわけではない。
大変に生活世界的な俗っぽい諸要素こそが、実は注目に値するというところにまで、わたくしたちはその理性を馳せなければならない。
たとえば、二親の食したもの、二親の排泄したもの、二親の訪れた場所、二親の性欲、二親の生殖行為、二親の体調管理、二親の願い、二親の生き方、それら二親があなたという存在者を受精卵と成すまでに至った、あらゆるモノとコトとは、すでにして誕生プロセスという歴史的所業における、諸々の素因として時間論的・空間論的に規定されていたのであり、現存在としてのあなたはという事実は、二親が解き明かした因果論的素因数分解における、たった一つの解なのである、という途方もない真実なのである。
ところで、あらゆるモノとコトとは、あらゆるモノとコトとに影響し合う、ということを忘れてはならない。
強度はさして重要ではないだろう。
たとえば、二親が或る日、あくびをした/しなかったという些細な選択肢の選択に迫られた、という過去の日常的事象程度においても、二親だけではなく、周囲のすべての環境世界における主体間の現象の因果論的成り行きは、その相貌をガラッと変えるだろう。
いや、宇宙の表情を激変させることもあるかもしれないのである。
受精卵として一先(ひとま)ず実を結び、母の胎内において、母と一体化しつつも、分裂してゆく旅を目論む胎児の原型は、母胎内におけるあらゆる粒や波の振動の中で、確固として分裂した状態であろうとする。
母性的存在の中における連続性を、胎児であるあなたは切り刻もうとするのかもしれない。
胎児は胎児で、世界の中で因果と一体化するために(すなわち可能態からの脱皮のために)、いくつもの選択肢、それらは因果的なものだけでなく、非因果的に潜勢態なるものも含められるのかもしれないが、ともかくその中から恣意的に何らかの選択肢を選んだかのように見えて、実は、すでにして決定させられていた選択肢を一身に体現させられていること(すなわち完全現実態の獲得)に、本当は気付いているのかもしれない。
それは、外界とキッパリ区別することのできない曖昧な総合体としての存在に対するささやかな反逆なのかもしれないではないか。
母胎内において臍の緒によって繋がれている限りは、つまり、まだ唯一と呼ばれることのない存在者として(中途半端な連続的存在者として)背景を奪われている限りは、その本能としての革命宣言も世界の世界性には届くことはない。
母胎外へと躍り出て、いざその母子の身体的絆を非連続性が鋭く断ち切るべし、という段階に来て、胎児は出生的存在者となるのだが、生まれてきたことにおける涙の第一声の意味とは、届かぬ革命宣言への哀惜と無念の、ちっちゃな慟哭かもしれないのである。
胎児のあなたというかつての存在者は、不正確かつ不条理でありながら、いかにも個体的な表徴に特有な振動を、母胎内で時折繰り返しては、ひとつの受苦であり、ひとつの享受でもある、存在の神秘を条理としての個体として体感することで、絶対的に覚醒してゆくことを現実化し得る、そのような存在者だと定義したとしても間違いではあるまい。
胎児は、臍の緒からの脱却を覚めない夢として夢見ていたのではなく、あらかじめすべての現実であった世界の世界性という秘儀の、予知めいた感覚を、「非遺体者」として現に生きている存在者である母に対して訴え掛けていたのではないか、と言ってしまえばレトリックに過ぎるであろうか。
どうにかこうにか産み落とされたあなたという生き物は、ひとつの生き物にはひとつのアイデンティティが所有されている、と先人たる人間たちによって認識論的に推論されてはいるが、生き物とは形態論的にミクロな視点から鑑みるならば、本来的には粒や波という不定形極まりない変化としての存在者の揺らぎに過ぎないのであり、アイデンティティなる概念の存在に対しては、疑義を挟んでしかるべき、なのではないだろうか。
人間たるもの、一秒前の髪の長さと一秒後の髪の長さですら身体的には同一ではない。
一秒前の心と一秒後の心などというものが同一性を保持する、などということが許されるのであろうか。
漫画家が同じキャラクターを、完璧に同じかたちとして描き続けることができないように、人間たちを含めた生き物という存在者は、同一性を存在の属性として所持することなどできないのではないだろうか。
つまり、あなたという存在者は、生まれる前も死んだ後も、とてつもない数の粒と波としての変化、言いかえれば可能性としてのみ有効であると推測される、不定形な実存能力であり続けるしかないのだ。
生前や死語において、生き物に意識があるとかないとか、個体としてアイデンティティがあるとかないとか、記憶が残存するとかしないとか、などどいう俗っぽい執着の根拠としての頽落的な存在論にこだわる必要などどこにあろう。
あなたは存在という観点からは逃れようもなく、――あらかじめすでにこれからも――実存の渦中を一手に引き受けているのである。