『完全無――超越タナトフォビア』第九十四章
完全無という世界のダミーが完全有の世界なのではない、ということ。人間たちが触れることができるのは、完全の一段階前、つまりニセモノの世界と呼び得る有のことであり、完全有とは、その文字面に反して決して人間たちんは把捉できない完全無のことなのである。
【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか】という問いにおける「何か」とは前-最終形真理としての有、つまりニセモノの有のことである。
つまり、哲学における究極の難問を解いたところで、世界そのものに到達することはできない、ということをあらかじめ認知しておくことが肝要だということ。
そのニセモノの有とは、対義語としてニセモノの無を持つことができる。ニセモノの無とは、ニセモノの有から全的に有そのものを消去したときにイメージできると誤解されている無のことであり、実際のところ人間たちはそのような無ですら想起不可能なのだが、便宜上、数字のゼロのようなものとしてニセモノの無を学問において援用することがある。
それに比べて、完全無と完全有は対義語になり得ない世界そのものの性質を無的にあらわしているのであり、人間たちの構築する概念を――あらかじめすでに――超越しているが故に、本来的には人間たちの理性の力によって定義することのできない完成形である。
この作品の前半の章の辺りでは、きっぱりと定義できずにいた完全無-完全有という「世界の世界性」について、今やわたくしにはその全容を完全な姿で読者の方々に披露できるという自負があるのだ。完全有とは、何もかも、つまり「全体・すべて」がすでに完結してしまっている、というような「決定論的・機械論的」な有などではない!
有にまつわるあらゆる定義は――あらかじめすでに――完全に無い。
定義不可能。
世界に「何か」がある、などとは思わないことだ。
まったくの無意味であり、完全に無であるもの、それが完全有なのであって、決定論すら成立し得ない、ということ。
人間たちは、世界をダミー化する能力を与えられているかのように振る舞うことができるのだが、そのダミー化できてしまうという奇跡の大元が完全無であることには注目すべきであろう。完全に無であるところの「世界の世界性」を、どのような規約化の能力によってダミー・ワールドとして現成せしめているように自分たちに感じさせるのか。それに関してはさらに突き詰めていかねばならない課題であろう。
完全無とは「原約」でもあるのだが、約束としての世界が完全に無である限り、通信不能、契約不能であるはずであり、「原約」とは約束という概念の特異点であり、無規定な約束であり、弁証法的発展の萌芽無き彼方の概念であり、「即自性・対自性」無き完全無である。ではなぜ人間たちに届くことのない約束が超越的に担保されているのか。
それに関しては「無と有とがその境界を分有することは絶対にあり得ない」というわたくしの定義から類推することができるだろう。
そして、そのあり得なさに対する無意識的革命として、人間たちがその誕生とともに培ってきた最大の欲求、それが愛である。
究極の愛とは、非頽落的な愛であって、それは「何もない」ということの破壊であり、無と有とを幻想的に結び付けてでも「何か」を産み出さざるを得ない奇妙に超越的なエネルギー(ただし、完全無の側からすれば何らの傷を負うこともないような無的な力)の炸裂ではないだろうか。
今のところそのように定義することでしか、話は進まないのだが、すべては後章に譲ることとしよう。