『完全無――超越タナトフォビア』第四十二章
ところで、この作品はマクドナルドことマックというハンバーガー・ショップの店内に集っているチビたちの前で、わたくしきつねくんが、世界を語り倒すという体裁(要するにパロール)になっているとともに、エクリチュールとしても同時に、想定した読者を狙い撃ちするべき文章(書かれた文字列)となっているのだが、ひとつ断っておきたいのは、お遊びの単なる小説風エッセイではないのだ、ということである。
この作品はあくまでノンフィクションであり、言うなればノンフィクション風エッセイであり、哲学的エッセイというよりは、ポジティヴな意味で、非哲学的エッセイである。
非哲学とは何か。
哲学的領域以外のすべての部分集合に過ぎない。
哲学とおさらばするための哲学。
では、そのポジティヴさを、緩やかに開陳していこう。
大樹の最後の一葉が大地に接触するその直前の静けさをBGMとして。
宇宙が閉じたシステムであろうと、開いたシステムであろうと、宇宙はひとつの可能性に過ぎず、世界は宇宙のみにあらず、ということをしつこく主張すべき余地が人間の学問そのものにはある。
物理学における究極的な「万物の理論」などと言ってみても、事物がなぜにあるのだろうか、ということの根元的な解釈には、物理学的真理の範疇を超えざるを得ない部分があるのだ、という認識に至ることができずに夢を追い掛けている人間も、一部にはいるだろう。
物理学者とは、化学者とは、人間である。
人間が人間に都合のいいように構築した「人間的スケール」の知というものは、人間の、人間による、人間のためだけの「真」理に過ぎない。
わたくしに言わせれば、「真」というものは、常に覆されるべきニセモノの大地である。
真理をニセモノの大地に根付かせ、美し過ぎて褒め称えるしかないような花々を虚ろに咲かせることで、人間は大いなる正午に、大いなる讃辞を、矮小化された地上に捧げることだろう。
その讃辞に次ぐ讃辞の歴史的まやかしが、次第に重さを増し続け、超重力となるほどに自らを転覆してしまう権能を持ってしまう、ということを予期できずに。
効率性と有意義性に蠱惑された人間は日々正解を得るため、命題を大地のみならず天空へと散種することに忙しい。
本当に大切なことは、正解ではなくて、世界そのものを体験することなのに。
正解としての「真」理というものは、「世界の世界性」におけるたったひとつの可能性の粒に過ぎないのである。
粒であるからには、無限の粒の存在の可能性を想起することもできるが、無限というイカサマに憑依されているうちは、世界の解析に取り掛かる前に、力尽きてしまうことだろう。
しかし、科学教信者と呼ぶにふさわしい一部の人間は、無限を愛しているか、憎悪しているか、というスタンスで構えざるを得ないのであって、彼らは世界を無限に解釈することに命を捧げつつも、憎悪という名のひねくれた愛によって、無限の中の「たったひとつ」を選び出すことに余念がない性分であることを自ら露呈する。
さらに、彼らの大好きな「無限」と「有限」とを、神と悪魔とを並べるように天秤にかけて、二つの皿が完全に水平になるまで、あたかも自らが天秤の支点になってしまっていることに気付かないような、そんな頑なさで、観察に観察を重ねてゆくことだけに取り憑かれているのだ。
人間よ、さあ、真理を超えて【理(り)】へと旅立つために裸になろう。
駆け上がるのだ、無限と有限とが交互に並ぶその石段を。
人間よ、さあ、最上段の超人なる概念の化石を踏み台にして、ツァラトゥストラに別れを告げよう。
わたくしとしては【理(り)】に到達するだけではなく、最終的には「WHY」と「BECAUSE」との関数さえも捨て、「世界の世界性」における根源的「HOW」からも自らを自らで逃亡させ、完全なる無に投げ出されたような体感そのものになり、それこそが狐族だけではなく人間にとってもまた、涅槃の先にあるであろう福音無き至福そのものであると確信できるところまで自らをダイブさせるような認識論的大転回を成すつもりだ。
しあわせの青い鳥を再発見すべく知の大航海時代を模倣して、大空へと墜落するのはまっぴらだ。
知の完全なる放棄、それはバタイユ的な「非-知」に留まることではなく、ヘーゲル的な絶対精神と合一することでもなく、ブッダの最終到達地点とされる受想滅の次元をも超えることで感じることだけができる、地平なき事象に、精神や魂などといった小賢しい虚構のすべてを剥ぎ取り、はだかの自己をどこまでも「世界の世界性」に対して差し伸べるべきではないだろうか。
生き物が未踏の地にその足先の影を落とすその瞬間の熱情のように。
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