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『完全無――超越タナトフォビア』第百十ニ章

分子と分子、クォークと反クォークとの間には何も「ない」わけではない。

何かが何かと引き合うためには、何かと何かが区別されるには、場が必要だ。

幅が必要だ。

それぞれの個物が本性を持つためには、個物同士は離れていなければならない。

しかし、化け「学」的世界のような化粧を必要としない哲「学」以上の非哲「学」的世界においては、あらかじめ無が埋まっている、いや敷き詰めることなく、完全に無である、という信条を持つのがこのわたくしであり、わたくしのこの思想すらももちろん、完全に無である、ということも知悉している。

世界には幅がない。

分子であろうと原子であろうと素粒子であろうとクォークであろうと有限性と動的無限性とを超える観点から観察するならば、無から――あらかじめすでに――成り立っている世界、いや、成り立つことなく完全に無である世界、わたくしはそれを探究する。

引力も電子の軌道も無の運動と言えばイメージしやすいのは確かだが、それは「世界の世界性」そのものとかっきりと対峙したとき、近似値的表現にならざるを得ない。

そしてその「学」的近似とは、確実に超越性を要請するような難儀な「近さ」であり、遠すぎる「近さ」を強請する知識体系の悪手である。

無から成り立ってしまっている、ということは、世界というものがあらゆるかたち無きかたちによってもはや埋まり切ってしまっていることを表わしているのではないか、と人間たちはイージーに想起するかもしれないが、世界とは決してそのような安易なイメージングを許さない難物である。

完全有という観点においては、世界はかたち無きかたちそのものだ、と決めて掛かることはできるかもしれないが、わたくしたちがこの作品の章を進めるうちに、完全有に比して完全無の方が圧倒的な頭角を現してしまい、完全有という概念の出現頻度が極端に減るだろう、ということが約束されている、と言ってもそれは過激な発言にはあたらないだろう。

有というものはどのような形容を施したとしても前-最終形的な概念である。

さて、引力であろうと重力であろうと、物理「学」的なかたちのせめぎ合い、かたちを支える場の奪い合い、かたち同士の絶え間なく変化する勢力地図、かたちのデザイン構築力、かたちのあらゆる時空的パターン、かたちのいのちを統べるすべてのアルゴリズム、かたちの運命的なメタモルフォーゼ、かたちの住まいとしての全次元、ともかく、かたちから派生するあらゆる関数的振る舞いは、もはや――あらかじめすでに――あっさりと完全に無的であり、かたちは究極的には「無-動」することもなく、ただ無い。

「無-動」とは、有と無との矛盾的馴れ合いを、かたちが際立つように比喩化した幻想に過ぎないのだから、完全無とは呼べない。

幻想とその領野を同じくするすべての蜃気楼的概念はすべて前-最終形真理である。

もちろん、そのような完全無の革命的唱道も、わたくし個人の説に過ぎないといえば、それ以上でも以下でもない。

さて、科「学」的世界観、日常的世界観からは明らかに逸脱した思想だろうが、そういった新奇な信条を許容できないようでは、いつまでたっても真理と偽理とのはざまに吹き荒ぶタナトフォビアの冷風に耳を凍らせるばかりで、【理(り)】へと到達し、さらにその【理(り)】をも滅却するという革命は成就しない。

完全有的表現としての「無-動」、つまり世界を有的かつ形而上学的に曖昧なまま監査するシミュレーションを何遍繰り返したところで、無の空動というものはどこまでいっても完全無と合致しないだろう、ということ。

運動という概念をすべて帳消しにするような引き算の発想は物理「学」的なシミュレーションによる世界の誤読、その名残りに過ぎない。

過ぎないが、「ある」ものを「ない」ものとする思惟を通過することは、儀礼として聖性を持つ、という点に関しては貶めようという意図はない。

それは、完全無に到達するための前段階としての有的イメージによる思考実験として実に有用でもある。

無的空動論、すなわち「無-動」論とは、引き算としての世界の捉え方であるが故に、完全なる無とは異種のものであり、数学における0(ゼロ)と同様、都合良く機能するだけのまやかしでもある、という差別化にも貢献できる代物であるだろう。

「動き」という有的表現を利用することで、まずは有的なものを心から抹殺しよう、という手立ての有効性は大いに示唆的である。

だがしかし、とにもかくにも完全無とはそのような「殺し」を儀式として求めない。

リンゴを手に持ったあなたは、リンゴも手もあなたも存在し得ない世界と、すでにして無的に同化している。

リンゴそのものの現成を保証する端緒は存在しないし、それを見定める視線、いや、リンゴそのものに撥ね返る光の粒たちも時空的端緒を確定することはできない。

過去・現在・未来は存在し得ない、というわたくしの思想には、端緒が端緒として定義されるためのあらゆる変数は――あらかじめすでに――隔離されることなく生成し得ないのだ。

リンゴを手から離してリンゴが手と地との中間にあるときのあなたは、リンゴも手も地も、手と地との中間という位置もない世界と同じだ、ということにもしもすべての人間たちが気付けたならば、それは素敵な完全無へのちょっとした憧憬とはなるだろう。

地に落ちたリンゴを見るあなたは、地もリンゴもあなたもいない世界と同じだ、と定義することはできない、という定義の無意味さを識るべきだ。

あなたがリンゴを手から落とすという行為の全体が完全に「ない」ということは、あなたがリンゴを手から落とすという自由意志のすべての始まりと終わりが完全に「ない」ことと同じだ、と定義するまでもなく、完全に無である。

それは素敵な無意味さではないだろうか。

完全なる無、という無的体験は。

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