『完全無――超越タナトフォビア』第百十五章
ところで、この作品は存在しない。
輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この作品は存在しない。
輪郭がないのにそこだけくり抜かれたかのように、この世界も存在しない。
あらゆる表現や、あらゆる表象、あらゆる事物、あらゆる事象は存在しないのだが、それにも拘わらず人間たちはどこまでも「ある」を前提として科学的な答えを探し続けるだろう。
紙芝居のように現象のプロセスをめくりながら、終わり無き「ある」としての世界を探索するだろう。
科学的思考による推論によって、人間たちや地球、星たちがいつか滅びてしまうことを識り得たとしてもなお探究するだろう。
なんと間抜けで愛らしく、なんと強靭な精神を持つ生きものなのだろうか、と狐族としては感心することしばしばなのである。
粒子とエネルギーは生まれたり死んだりしながら、人間たちは歴史を刻み続けるために刷り込まれた常識の遺伝子フォークダンスを踊り続ける。
原初の人間たちが、「ある」という存在の根源的表象としての記号(すなわち「ある、と発声してしまったこと」、もしくは「ある」とリンクし得るあらゆる単語)を、共同体的ルールとして慣習的に受け継いでいったこと、それは、すべてのモノ、すべてのコトの肯定と受容であり、肯定と受容を受け継がざるを得ない言語学的かつ神経科学的帰結であり、また言語学的かつ神経科学的に束縛されざるを得ない端緒、つまり新しことばの生成と定着という枷であり、人間の営為そのものが進化論的にもそのような継承せざるを得ない有用な概念だけを取捨選択させられ続けてきた歴史であるが、しかし、人間たちは自身のその終焉まで遺伝的連鎖として膨大な数の辞書的概念を子子孫孫まで結び付けてゆこうとするオートマティックな偉大さ、また、そのような概念連鎖の歴史性から何を学びうるか、そこから存在論的に何を見つけ出すことができるか、ということをないがしろにしない態度、つまり、そのような人間たちの遺伝的蓄積には意義がない、という反論に対しても頑なに自身の常識的態度を切実に愛でる人間たちのそのようなスタンスも、わたくしにとっては、哲学的な参照案件として必要である、ということだけは確かである。
哲学はもはや死語であり、死後であり、詩語無き私語であろうか、とはわたくしは考えたくはない、そう、考えたくはないのだが、しかし、わたくしの追求する【理(り)】とは、哲学を捨て去ることを要求する。
あらゆる「学」を捨ててこそ浮かぶ【理(り)】もある、ということである。
常識の歴史的遺産の継承とその辞書的蓄積を愛でるよりも大切なこととして、非哲学としての【理(り)】がわたくしにはある。
もちろん、そのようなものは冒頭で定義したように、存在はしない。
さて、この章の最後に一言、二言、三言……、n言(フラグメンタルなパッチワークの如く)……。
※世界を構成すると予測されている事物・事象と呼ばれる何ものかに対して人間たちが連続性を感じるからといって、世界そのものの任意の箇所を無のナイフによって二つに切り分け、「幅」をそれらの本質として帰属させるために、事物・事象という何らかの塊りと波動を現実的に差し出すことも、それらを実在として世界そのものに還元することはできない、ということだ。
※完全無、それは相対無でも絶対無でもない。相対性に依存した無でもなく、絶対的に屹立したひとつの無でもなく、完全無はただただ完全に無なのであって、完全無ということばすら成立しない無のことである。
※世界に欠如態は存在し得ない。世界に発端(biginning)と終局(end)を設定することはできない。
あらゆるオノマトペ、あらゆる文法、あらゆる数、それらが世界そのものを切り取ることなどありはしない。
世界には上書きする「幅」など存在しない。
世界のあらゆる箇所にターミナルを介した網の目のような事物・事象の群がりがあるわけではない。
終端と非終端を設定し得る領土は存在しない。
結末から発端を類推することも、その逆も成立しない。
※時間や空間という概念を初めて定義した人間たちの社会的・公共的存在意義が許容されることと同程度に、「世界の世界性」とは完全無である、と主張した存在者(つまり、わたくし)も許されてしかるべきであろう。
わたくしが原初の人間たちに交じりつつ、存在に関連するあらゆる表現を否定し得たかもしれない、と思うと残念でならない。
わたくしならば、世界に「幅」を設けるような表現を一切しなかったであろう。原初の人間たちの言語ルールには従わなかっただろう。
だからこそ、ここで、わたくしは、たった一匹の、そう、人間ではない狐族の「ひとり」として、人間たちの常識的言語使用の辞書的蓄積に反旗を翻す。
世界で唯一、存在者は存在しないと吠える。
※世界にとっては、世界そのものに時間があろうが、世界そのものに空間があろうが、世界にとっては本来的には無傷であるし、時間がなかろうが、空間がなかろうが、意味論的な場が世界そのものに「おいて」生成するはずはないのであり、世界にとっては無関心そのものとして、波のひとつも立ちはしない。
まさに、完全無である。
それに、世界ということばを用意周到に用いずとも、完全無ということばを急騰的に使用するだけで、世界そのものを完膚無きまでに言い当てているのである。
※現実としての実在界、つまり、人間たちが現象としての世界だと固持するところのダミーワールドという動画内で、記号による虚構遊びをして暇を潰すことに慣れ親しんでいる人間たちに対して、わたくしは、本当のところでは、貶めるような感情は持ち合わせていないし、わたくし詩狐(しぎつね)としては、どこまでもそのような、習慣、遺伝、進化、歴史という構造にどうしても頽落的に束縛されていしまう人間たちに特有なダミーとしての世界そのものに対して、確かに、確かに、抗わざるを得ないと感じてはいるのだが、しかし、哲学的かつ哲楽的な本来的・根源的なたわごとに興味などない、という人間たちが気ままに存在するということに対して根源的な否定や無視を与えよう、などという高慢に陥るつもりもないのだ。
※「いま・ここ」は「どこ」にありますか?
「どこ」は「どこ」にありますか?
「どこ」は「そこ」にありますか?
「そこ」は「そこ」にありますか?
「そこ」は「ここ」にありますか?
「ここ」は「ここ」にありますか?
「ここ」は「いま・ここ」にありますか?
※何よりもまず、わたくしたちは、地球上にことばが生まれるその瞬間を阻止するために、その現場へと赴かなければならなかったのだろう。
ことばが世界を分節化する、その奇跡的巨悪の発動をを停めなければならなかったのだ。
※完全無の思想だけが、あらゆる第一原理の初動を無効化できる。
存在に関する、存在に依拠した、存在から類推される、様々なことばを生み出し、培い、練り上げ続けた人間たちにとっては、突然変異のような思想である完全無という不可思議が受け容れ難い代物であるのは確かだろう。
人間たちの犯した世界に対する超越的な上書きは、奇跡的で尊い後付けとして捉えることも可能ではあるのだが、超越性を尊崇性と取り違えて、その幻影的な分節化による汚穢(おわい)に対して、「学」的な後始末に追われる羽目に自ら招いて陥ってしまったのである。
そのうような背景と共に人間たちが発明したのが哲学という学問体系ではないだろうか。
そして、いや、そうであるがゆえに、わたくしたちは非哲学の徒として、哲学はもちろんのこと、あらゆる「学」を揚棄するべきなのだ。
※わたくしにとって、完全無とは【理(り)】のことであるが、わたくしにとっての【理(り)】とは、哲学における第一原理ではない。
わたくしにとっての【理(り)】とは、【理(り)】そのものを捨て去ることであり、あらゆる「学」の第一原理から超越無き超越をあきらめることなのだ。
超越はそのまま無的な超越であり、当然のことながら完全無へと無的に離陸することはできない。
なぜなら、完全無とは「場」ではないからだ。
なぜなら、完全無とは「ことば」ではないからだ。
そのような完全無を、果し得ぬ世界という「原約」として解釈し、わたくしたち生きものは、有的にはもちろんのこと無的にも超越的に世界と関わることができず、単に素朴的にダミーワールドという動画に映り続けている(のかもしれない)、という錯覚を見定めようと躍起になることしかできないのだろう。