『完全無――超越タナトフォビア』第四十九章
二〇二〇年代の今(※この作品のそもそもの着想は二〇一四年ではあるが)、宇宙は膨張しているという仮説が宇宙論的に地球エリアで優位を占めている。
しかし、宇宙の行く末を、無限の大きさをもつ超数学的な点に吸い込まれつつある過程であると仮定することも、理論物理学者ならば可能であるし、ビッグバン宇宙論とはまったく異なる仮説をわたくしが持ち出したとしても、誰も――科学的には――直接証明を成すことなどできない。
だが、はっきり硫黄、いや、言おう。
どのような宇宙発生論であれ、どのような宇宙進化論であれ、科学的な探究において、数学的なお道具に頼らざるを得ないならば、なんらの根源にも至ることはできないということを。
無限、それはない。
大きさ、それはない。
点、それはない。
途中経過、それはない。
ない、と言えないことは、ただひとつ
ある、ということだけだ。
そう、あるだけだ。
ある、ということを識ることができている人間は、生命として実は素朴に幸福であるはずだ。
素朴に実在していることに素朴でいられるとしたら、それはある意味、仏教的な悟りに近いのではないか。
もちろん仏教的悟りとは前-最終形真理に過ぎないことは言うまでもないことではあるが。
ものごころが付く前の年齢の人間こそが、仏教的には最強の覚者であり、彼らにとっては、交合、ドラッグ、ヨーガ、公案、座禅、臨死体験、不老不死の妙薬、機械のからだ、アンドロイド化、クライオニクス、あらゆる錬金術、あらゆるトランスヒューマニズムなどは、必要のないガラクタ以前の塵に等しく、タナトフォビアの自覚すら無き彼らは、ニーチェ的超人を超えた超超人でもあるのだ。
と、言いつつも仏教的悟りには執着することは、この作品においては本義ではない。
そもそも、仏教思想におけるあらゆる色(しき)は、空(くう)と並置する以前においても存在しない。
人間が瞑想的にも科学的、論理的にも奮闘して、あらゆる色(しき)を区分けして並べ立てたとしても、わたくしにはそれを哲学的には感じることはできない。
「色即是空」というテーゼは、二元論における二元のその果てしない間隙において、両腕を左右に引き千切られんとする人間という主体の、阿鼻叫喚地獄絵図を想起させるだけである。
二元論からの脱却、脱構築という言語ゲームは東洋思想だけには留まらない。
東洋と西洋との比較思想に時を費やすこともできるが、この段階では最適解ではない。
ただ、次のようなことを言っておいても、この作品にとってデメリットとはならないであろう。
人間によって宇宙と呼ばれるこの世界(「世界」ということばも人間が生み出したものだが)においては(より正確に言うならば、人間は決定論的/非決定論的宇宙において)は、とある現象における特定のクオリア(感覚質)を、己の意識という装置に機械論的/反機械論的に与えられているだけに過ぎないのではないだろうか、と主観的に疑義を呈しつつ、さまざまな仮説によってそれを客観的に検証するに留まるのが、人間の知、人間の分節化能力の限界であろうと思う。
人間を含めたすべての地球上の生き物には知り得ない質感、そのようななんらかの不可思議な存在も、人間の知り得ない世界においては存在してもおかしくなないのではないだろうか、ということを想像する程度ならば、誰にでも可能ではある。
ともかく、個々の現象に対する表象の核とも言えるクオリアとは、あるひとつの世界における恣意的かつ決め事であり、ロマンティックな秘め事よりもほんのちょっとミステリアスなだけなのである。
(と、わたくしにしては、割と滔々と語ることができているな、と自覚したその最中に、チビたちが、わたくしの話と直交補空間的に、つまり部分空間内のすべてのベクトルと直交するようなベクトル全体の成す集合的に、つまり、わたくしの意味不明な思想から直角に曲がったところでおしゃべりを構成しているのを発見したのだ。)