『完全無――超越タナトフォビア』第四十五章
古今東西、さまざまな人間がアリストテレス的始動因の虜囚として、通時的にも共時的にもボール&チェインに繋がれ続けている。
三つの輪としては強固に繋がれているのに、三つのうちの二つの輪に注目したとたん、それら二つの輪はもとより連結されていないことが露呈するボロメオの輪(ボロミアン環)、それに注目したのはラカンという精神医学者兼哲学者であるが、ひとつひとつの輪に、現実界、象徴界、想像界を象徴として対応させることで、「世界の世界性」を表現しようとしたのであるが、わたくしにとっては、世界とは分けることで逃げてゆくものだという確信があるので、早々に棄却したい世界観である。
さらに、メビウスの輪に世界の在り様を象徴させたり、太極図に根源的世界の象徴を見たり、といった世界観も一般的であるが、どちらも世界の誤読である。
やはり人間は、無限と有限という対義語を乗り越えられずにここまで来たのだ。
無限、それはどこまでも続く何らかのもの、有限、それはどこまでも続こうとはするけれど、何らかの壁に遮られるもの、つまり限りがある何らかの「幅」である。
だがしかし、「幅」というインチキを、任意に許してしまう余地のある思考プロセスが、いかに論理の手順を踏んでいようとも、そこには、常識的かつ頽落的な、いわば誰もが行き着くことのできる程度の可能性に縛られた真理、わたくしの言葉で表すならば、前-最終形真理しかないのである。
既存の思想や哲学、科学の最新の知見などを踏み台にして、認識の歩みをさらに奥へと進めて、真理だけでは不十分なのである、という推論に踏み切ることに魂を捧げるような人間が少なからずいるならば、わたくしはそういう人々とお話をしたいものだ。
結局わたくしが何を言いたいのかというと、セカノオワリなどという「帰結強迫」観念をセカイノハジマリという「始動強迫」観念とともに捨てよ、ということである。
前-最終形真理の範疇内とはいえ、とりあえずは、始まりを捨て終わりを捨ててみること、すなわちバタイユ的な「非-知の夜」へと大胆に裸になることこそ、大いなる捨身の爆発を導く、踏み上げられた象の脚の下を駆け抜けようとする蟻のかけがえのない一歩になるのではないだろうか。
密度が無限大で、大きさが無限小の特異点、というものを世界は持たない。
完全無とはとどのつまり完全有のことであり、無限大や無限小のように分節点の可能性を誘致する概念は、世界の「有」として適任ではないということ。
密度はない。
世界はあらかじめ存在で埋まっているからだ。
そして、世界とは無限の個物の集積という事態ではない。
常識では到達できないだろう事変が、モノとコトとを超えた世界においては――起こってしまっている――のだ。
巷において、頽落した人々の口の端に上りやすい話題がある。
人は必ず死ぬ、死なない人間はなどいない、という決め付け。
だがしかし、そのようなレベルの早とちりであれば、論理的にも科学的にも否(いな)を叫ぶことが直ちにできるのではないだろうか。
人が死ぬ確率は100%とは言えない。
たとえば何千年後か何万年後かに、人類の生み出した科学の畏怖すべき発展、もしくは最近流行りの第四次産業革命のトリガーと目されているシンギュラリティなる技術的特異点によって――死なない人間――を産み出すことができるかもしれないではないか。
そのとき、人の死の100%神話は一気に崩れ落ちる。
科学的レベルの範疇でその正誤を判定できる程度のまやかしにすら対応できないようでは、【理(り)】への道程は、光より速いスピードでも踏破できまい。
いや、もとより、いかなる速度性も「世界の世界性」とは非接触ではあるが。
もちろん、あらゆる神話の崩壊に寄与できる知力というものは、一般的、客観的、科学的、論理的な形式的正誤表の範疇においてのみ威力を発揮するのであって、個人的・極私的な信条・信奉の正誤に関しては、非力である。
たとえばわたくしきつねくんが、「世界の世界性」という根源的な観点からは、何千年後、何万年後という常識的な線型の時間、「幅」を持つスペースとしての時間などは、あり得ない概念とし、一般的、客観的な死という生物学的、法医学的概念など存在しないのだ、と信条的に吠えていることの、その正誤を客観的には証明できないことと同義で、唯一の例外性そのものが真に正しいかどうかは、いかなる知性によっても本源的には推測することはできない、という点は認めざるを得ないのである。
もちろん、そのたったひとつの例外的事例によって穿つことができるのは、知そのものではなくて、知から派生するところのあらゆる正誤表の方である、ということはここで断じておこうと思う。
わたくしきつねくんの【理(り)】が、わたくしきつねくんの知から派生しただけの推論であるとしたら、その正誤を決定することなどできないのである、ということも前提として認めなくてはいけない、ということもわたくしは承知している。
では、なぜ語り尽くすのか。
語り尽くすことでしか、感じることができないものを感じるためである。
感じることの放擲としての仏教的解脱をさらに推し進めると、感じることそのものの喜びとすでに一体化している世界と邂逅するだろう。
接触することなく、非接触することもなく、世界そのものとなるという意味合いで世界と非指向的に遭遇するだろう。