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『完全無――超越タナトフォビア』第百十一章

(ここでチビが発現すると同時に発言する。
それにしたってガンジスの河岸の砂の数を数え終わるほどにおひさしぶりな登場ではないだろうか。
拍手喝采。
チビ、ウィッシュ、しろ。
三匹に乾杯。
みんなの瞳に恋してる。
チビのそのことばの端緒は、情緒的に何か高揚しつつといった割り込み型というよりは、あらかじめその会話の流れが決まっていて、ただそれをなぞって棒読みするかのように、という感じでこう呟いた。)


「なぜ何かがあるのかってさー、あるっていうことばを人間がつくっちゃったからじゃないかなー、そういうことばがなければ、何かがあるってときの、あるっていうのもほんとはないんじゃないのかなー」


(そこでわたくしきつねくんは、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調作品95『新世界より』第三章スケルツォ:モルト・ヴィバーチェよりも雄渾にこう返す。)


「さんきゅー、チビ。さんきゅー、しんきゅー、すんきゅー、せんきゅー、そんきゅー、チビ」


(そしてわたくしきつねくんは深呼吸するのだ、嗚呼、円周率は確定したんだなあ。)

(「もし、完全無もしくは有ということばがないとしても、チビたちは確かにない。それは完全なる無だからね」と、わたくしきつねくんは嬉々として言の葉をさらに一枚足す。
もちろん、非頽落的な哲学的観点においては、何かに何かを足す、なんてことはあり得ないのだが。)

(すると、時そのものに隙間を設けることなく、チビが微笑みの極限値に到達したわらいをリフレクトする。)


さてさて、さてさてさて、チビのわらいがわらいであることをやめないうちに、続きを語ろうか。

ところで、あたりまえのことだが、ことばでは世界をあらわすことはできないし、世界ということばを用いていることすら、矛盾を含んでいるのだが、まあ仕方あるまい、ことばには限界があるということだ。

チビたちだってきっと気付いているんだと思うんだ。

そういうデリケートなルールってやつを。

それに、哲学の未解決問題である、なぜ何かがるのか問題を問われたなら、それは、なになにだからです、と答えなければならない、というそのことがすでに世界の究極の理からは遠いってことにも、チビたちは言語外で到達できるような気がするんだ。

それはともかく。

さて、「遠さ」という概念、そしてその遠さが導出してゆくあらゆる関数のネットワーキング・サービスってのは「幅」を持っていて、わたくしの重要テーゼ「世界には幅がない」という座右の銘からすると、決して利用したくないサービスなんだな。

ほんとのことと嘘っぱちとの間には、まあ「遠さ」ってのがあるんだとは思うけど、そんな「遠さ」ってのはただの幅じゃん、無駄じゃん、無意味じゃん、って思うわけ。

まあ、ともかく答えとしては、完全無ありき。

「ありき」は余計だから、完全無、そこで切ってほしいかな。

なぜ何かがあるのか? 

完全無。

終わり。

と、してほしいのである。

そんでもってその後、その完全無という文字すら捨て去ることができるならば、怖いものはないのではないだろうか。

タナトフォビアだろうと、棚とキャビアであろうと。

無敵の哲学、いや、完全無って、無的の非哲学じゃないか?


ウィッシュ
「きつねさん、なぜこの章ではタメ口なんでしょうか?
ウィッシュボーンにとってはそれが謎です!
よろしくおねがいします!
ちゃんとしてください!」


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