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『完全無――超越タナトフォビア』第十一章
さてさて、己が転がしたボールに責任を持たなければ、ゲームは正当とはならない。
ただそれだけのことである。
世界ってのは、有限でも無限でもないんだ、対義語の彼方にあるんだ、という暫定的ルールがわたくしの脳内を転がり回るのを、こころで追うだけではなくて、しっかりと現存在として抱き留めなければならない。
対義語の彼方とは、世界そのものだけではなく、そこに帰属する人間の個としての在り方にも関係している。
あるひとりの人間は、自我と他我との相克によってでしか「わたしがわたしであること」を捉えることはできない、という暫定的ルールにも、わたくしは今のところ従っている。
わたしとは「わたし」でも「わたしでないもの」でもない、ということだ。
このような「なぜわたしはわたしなのか」というアイデンティティの問題は、人間的スケールの課題(まあ狐レベルでも犬レベルでも同じことだが)であって、世界そのものを解読するようなプロジェクトにおいてはあまり役には立たない。
宇宙的視点を超えるようなレベルから、「世界の世界性」そして存在者の存在性に対して、ホリスティックに捉え直すようなやり口こそが初歩の段階としてはまず正当とされるのだ。
「世界の世界性」から存在者の存在性に到るまでの無にも等しい巨大な道程を、逐一、疑義を挟みつつも、解剖の手を緩めることなく、無垢な両腕でそれらを包み込むような定義が必要なのだ。
そして、それに魂全体で感づくことが、真に哲学的なスケールによる「世界の世界性」、存在者の存在性に対する究極的な探究なのだ、なんて言っちゃったら、チビたちはブービーブービー言いそうだよね。
チビたち宇宙にライバル心とか燃やしてるひまないしー、とくにチビは犬雑誌の「読モ」ランキングの毎月の数字こそいのち! というチビの声が、今、ほんとうに聞こえてきたような、こなかったような……。
(わたくしはひとつ深呼吸をして、ジンジャーエールのストローへとくちびるを導き、吐息を、誰もが見たこともないような小動物を檻から放つみたいに、チビたちへと差し出した。)
ここまで論を進めてきて、完全だと信頼し切っているなにものかに裏切られるような予感はチビたちにはあるだろうか?
チビたちを前に、こんなことを言うのはかなしいことだけれども。
まあいい、続きを聞いてほしい。いや、聴いてほしい。
このマクドナルドの店内というありふれた単純性の空間における発話の中で、これまでわたくしが究極だと信じてきた観念が覆されるかもしれない、そんな畏怖と期待に、わたくしが震えなければならない「時」が、この先のどこかの章において両腕を広げて待っている可能性は高いのだろうか。
いや、高いだろう。
まあいい、ちょっとこの章あたりからわたくしの言辞にほころびが生じてきたのかもしれない。
とりとめのなさにちょっと自信を喪いかけているのだが、気分を変えるために、科学における科学的態度について少し触れておこう。
科学におけるあらゆる実験と観察による結果は、数値としての近似値だけしかはじき出せない。
観察した事象の正確な数値は数学の特性上定まることはない。原子時計のそれぞれに誤差が生じることは確かだし、確定的に正しい円周率の数字はない。
また、あらゆる観察は、あらゆる差異があらゆる差延(差異+遅延)へと還元されることを示唆する。
観察者は時空の中で事象を掴み損ねつつ、半ば強制的に「世界の世界性」という粗相の尻拭いをしなければならないのだ。
つまり世界そのものからすれば、常に齟齬をきたして止まない観察者の認識の差延によって永久に誤解され続けることに対して、なんらの責を負うこともできないでいるのだ。
観察やその結果は、常に現在という時間に対して、無限に後れを取らざるを得ない人間の認知システムに左右される。
そして観察結果を知覚し認識し理性が推理力を働かせるその頃合には、原体験はもはや近似値としてしか定義できなくなっていることを世界そのものは知っている。
知っているのだが、世界は自ら腰をあげることはない。
世界は既存の哲学のことばを使えば、不動の一者である。まなざすこと、照らすことはできても、その手を差し伸べることはできないのだ。
それを神と呼ぶ宗教もある。
存在者の観察という行為で見えてくるものは、世界そのものではなく「世界の世界性」のみであり、それは世界にとって実はとんだ失態に過ぎなかったのかもしれない。
しかし人間にしてみれば、世界そのものの虚をついたことになる。それは科学の大手柄と言うべきではないだろうか。
人間のような優れた(半分はお世辞である)知性を有する生命体が世界に対して誤読してしまうような隙を、世界が善意の過失によって世界性として人間に与えてしまった、とも言い得る。
これこそが、一般的な、常識的な、通り一遍の、それゆえ信頼のおける代物だと重宝されているところの、公理や定理、定義などを用いる数学的・記号的な世界性の捉え方であり、そういった記号の羅列は、世界そのものではなく、「世界の世界性」についてだけにしか、真偽を見極めることはできないのだ。
科学による謎解きとは、世界そのものではなく、世界の恥部としての世界の本性(ほんせい)のメカニズムである世界性と、世界の本性を、ある一定の時空の枠組みの中で切り取ったとき、その本性が再現性のあるプロセスなのかどうかを判断することのみに焦点を合わせることができる武器なのである。
つまり、科学とは世界の根源からは無限に後れつつ歴史を進み、その渦中において所々で驚愕の科学的大発見が起こり、そのたびに科学史における一連の「合理性ある流れ」を瑕疵なく維持するために、絶えず辻褄合わせをする宿命にあるのである。
科学一般は、大いなる学としてその足跡を、歴史という断層を常にずれ動かさざるを得ない世界そのものを眺めつつ(歴史にとって世界とは遠くに見やることでしか関わることのできない存在である)、断層無き世界の根源への飽くなき希望だけを人間の脳内に刻み続ける。
チビたち、そう思わないかい?
すべては掴もうとしても無限に遅れてしまう、ということ。
それはそうだろう。
何を観察するにも時計的な時間は必要さ。
観察データを人から人へと知識として転送し、共通の認識という箱におさめるときも、時間ってやつはほら、躁状態になったりすると、その鋭すぎる爪であたりかまわず引っ掛き回すじゃないか。
つまり引っ掻き回せる余地が人間の脳内の想像界にはあるってことなんだな。
たとえば、人間の生み出す観察データを信憑性ある真理と成すためには、幅のある時間(川の流れのような時間)すなわち何らかの空間の集積場に捨てられた古びた時間情報(なぜなら時計的時間における現在は必ず未来と過去を生みだし、あらゆる未来は現在の背負い投げによって絶えず過去へと放り投げられ、ホコリまみれ、いや下手したら傷を負うことになるからね)、つまりジャンクの寄せ集めにも似た、あらかじめホコリまみれで傷だらけの時間(なぜならさっきも言ったように、時計的時間は常に無限に古びる定めだから)のひとまとまりを廃棄する場所としての空間ってやつがなければならない、ということ。
そのすべての傷を寄せ集めた場を「前-最終形真理」と呼んでもいい。
時空や因果関係との関連によって定義される場は【理(り)】とは成り得ず、一段階前の真理となるのだ。
そして、もともとは信憑性無き無の場であったそのエリアを時間の爪が切り裂くことで空間が生まれる、というイメージを人間的スケールで語れば、先の背負い投げ云々の喩えになる、ということに過ぎない。
時間ってやつは空間とタッグを組みたがるというより、それを引き裂いて、きれぎれにして、亡き者にしたい、という根元的欲求でも持ち合わせているのだろうか。
そして、やたらと能動的で攻撃的な躁状態における時間に比して鬱状態のときの時間とはおそらくビッグバン以前の空間にしか存在しなかったのかもしれない、と類推することも重要だ。
とにもかくにも、時計的時間というものが立ち現われてくる場としてのあらゆる裂傷、それを空間と呼ぶならば、そのような場に世界そのものは姿を見せることはできないだろう、という把握、そのような理屈に終始してなかなか先に進まないようなことがあるならば、わたくしきつねくんの【理(り)】には辿り着くことは決してできないだろう。
『地獄の季節』における詩人ランボーを真似て言うならば、科学も哲学も今や足が遅いのだ。
決して世界におけるほんとうの無(物理学における無よりももっと徹底的に完璧な無)に挑んでいないわけではないのだろうが。
やはり根本的に物理学というものは「物」ありきである。「物」がなければプロセスもない。
「物」がなければ学として成り立たないではないか。
「ほんとうになにもないこと」に対してすべての学は蔑称としての「形而上学」ということばを援用する。
わたくしは「形而上学」こそが最も難解かつ根源的な学だと思っているのだよ、チビたち。
いいかいチビたち、世界を知る、ということはあらゆる学の根源的欲求なのだが、おそらく、世界の根源を知る、ということは世界ですらも不可能なのではないだろうか。
超越的にも、本質的にも、感覚的にも、世界は世界そのものに対してなんらのまなざしをも向けることはできないのかもしれない。
世界に根源があるならば、世界のその息遣いは世界性を通して(媒介として)、方向あるものとして、潜在的エネルギーのあるものとして、かたちあるものとして、もしくは、かたちなきものとして、人間を含めた存在者たちは知覚・認識・推理・想像することができるはずではないか。
世界の根源とは認識できるあらゆる枠組みをはみ出すことなく、あらかじめ消失している。
世界を表象として再現前化することはできない。
なぜならば、それは対象となることができない。
世界の「世界そのもの」は絶対的に幅という概念を(どのようなベクトルであれ)を持つことはない。
安易な落着け方だと思われるかもしれないが、ともかく想像することも証明することもできない代物であるのは確かなのだ、とわたくしはこの十一章でうれしいことに気付いてしまったのだ。
ではわたくしはこの作品において何をしているのだろうか。
それは、この作品を(チビたちにとっては)聴き終わることで、(読者の方々にとっては)最後まで読むことで見えてくるだろう、と思う(確信ではない)。