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『完全無――超越タナトフォビア』第十四章
まあそれはともかくといたしまして、ここは公共の場、大衆系ファストフード店・マックですので、あまりラウドな声を散らすことは福祉的マナーに反しますから、少々抑え目で参りたいと存じます。
まず、すべては、ある、ということだけなんだぞ、
という強弁が、きつねさんの口癖です。
ある、しかないんだそうです。
ウィッシュボーンもなかなか理解しづらかったのですが、
過去とか未来とか現在などがあるのではなくて、ただある、
ということを非説教的に説かれました。
因果関係や確率などによって導き出される現象も実のところは存在せず、
世界には変化すらないのだ、という考え方です。
ウィッシュボーン腰を抜かしました。
これはただの比喩ですが、比喩以上に強烈な必殺技でした。
関節外しの達人ですね、きつねさんは。
思想がなんだかエレガントなんです。
エレガントな宇宙よりもナイスなんです。
ないということが、ない。
ある、ということしかないそうです。
しかもそれは変化しているようで、していないんだそうです。
なんということでしょう!
先程と違う風景だとか、先程と違う表情だとか、
そういったすべての「アフター」もすべて、何らかの運動によって変化しているのではなく、ただただそうなっていて、そうなっていることだけが現実として世界そのものに貼り付いてしまっている、という思想。
それが、きつねさんの【理(り)】を獲得する際の、初歩の段階における最も重要な発想なのだそうです。
こんな豪快な思惟形態、ウィッシュボーン的には耳にしたことがないのです。
耳の長いウィッシュボーンの耳に一度たりとも侵入したことのない哲理だったのです。
ええ、ウィッシュボーンも人並みには(まあウィッシュボーンは犬ではあるんですが)いろいろと哲学や宗教学などを学んでおりますが、いまだかつてあまりなさそうな独創性に出逢った感じが致します。
ということはですよ、この宇宙ですら、はじまりもおわりもなく、進んでいるわけでも、戻っているわけでもなく、膨張してるわけでもなく、収縮しているわけでもなく、遠ざかっているわけでもなく、近づいているわけでもなく、時間が進んでるわけでもなく、戻っているわけでもなく、ただそこに完全的な「ある」ということだけが「ある」ということなんでしょうかね。
精確なる【理】を理詰めで捉えるよりも、直観的に掴まえるとよいのでしょうか。
宇宙なんて存在は究極的にはないそうです。
もちろんこの程度のことなら古今東西ぽつぽつとおっしゃられた哲学者の方もいらっしゃるでしょう。
空間と時間もない、ときつねさんはよくおっしゃいました。
もちろんこの程度のことなら古今東西ぽつぽつとおっしゃられた哲学者の方もいらっしゃるでしょう。
たとえば、宇宙はただそこにある、と、どこかの哲学者の方がおっしゃったのを目にしたことがございますが、「ここ」や「そこ」というものはないし、「ここ」と「そこ」にあるべき空間というものもない、
「ここ」から「そこ」へと向かうという指向的運動もない、と息巻くのがきつねさんの常套手段です。
なんだかきつねさんの考えを味わうたびに、何事もがんばっていきましょう! と、自分を鼓舞する意味すらないのではないかと意気消沈してしまいそうですが、何を思おうと、何を行動しようと、何に失敗しようとも、ただ、その事物・事象があるだけなのですから、じたばたしようと、なにを欲求しようと、すべては「もはやすでに」その状態でしかなくて、もっと言えば、その状態になって「しまっている」のですから、世界は完結しているという、その余裕しゃくしゃくな「感じ」に理性の肩先をもたせかけるべきなんでしょうかね。
きつねさんの思想は、科学的な数学的な手続きではあらわすことはできないのかもしれません。
おそらくは科学や数学を超越しています! なんて拳を突き上げたいところですが、さすがにそれは増上慢過ぎるでしょうか。
ウィッシュボーンは謙虚さを忘れないようにしたいのです。
あらゆる学問を意味なき戯れ言にするほどの力が充溢しているのではないか、と勝手に思いたいだけであって、おそらくそれはきつねさんとの親密度が投げ掛けるバイアスの網ではないかとウィッシュボーン、少々きびしく自分自身をいさめたいと思う次第であります、ええ。