『完全無――超越タナトフォビア』第六十八章
さあ、続けよう。
口述であれ記述であれ、それらことばの記号(記号作用と記号内容の合わせ技)としての性質なくしては、神話も、宗教も、詩も、哲学も、科学も、その象徴性を人間社会において維持することはできない。
あらゆる人間社会における物理学的応答に根差したソースコードは、たとえ機械が人間たちを支配するようになったとしても、また、機械自らが機械そのものを生み出すような時代が到来したとしても、「世界の世界性」に関して、前-最終形真理を超えて述べ尽くすことはできないことになっている、と強弁しても過言ではないだろう。
ここでわたくしは、あらゆる世界規定の原点の法源(ただし、未完成)としての約束を「原約(げんやく)」と名付けることとする。
「原約」とは音節、身振り、文字(すなわち、時空的亀裂としての分節)以前の、記号・暗号以前の、共同幻想的分節共有以前の、つまりは、あらゆる祖先以前の、神以前の、宇宙以前の、「世界が世界性」に対して契りを結んだところの「超越的契約」における胎動無き生命であり、次元無き、幅無き臍帯(さいたい)を通じて、完全無-完全有と結束しているのだが、その結ぼれをほどくことは究極の【理(り)】によっても実のところ不可能なのではないかとわたくしは考えている。
なぜならば、結ぼれとは、完全無-完全有と原約との完璧性である限り、語ることも感じることもできない、という諦念によってでしか概念として立ち現われてこないのではないか、という不可解さが付き纏うからである。
結ぼれは――あらかじめすでにこれからも――完成してしまっている。
せめて究極の【理(り)】に可能なことと言えば、その結ぼれを外側からでもなく内側からでもなく超越的に、結ぼれに成り代わるかのように、近似値的に擬装することくらいであろう。
小枝や木の葉に擬態する昆虫(パプアニューギニアのユウレイヒレアシナナフシやマレー半島のオオコノハムシ等のナナフシ目を想起せよ)のように。
そして、最終的には【理(り)】すらも抹殺せねばならないとわたくしが先程説いたのは、なぜか。
それは、【理(り)】がある限りは、「世界の世界性」という無的性質がことばとリンクせざるを得ないような、ことばと共存せざるを得ないような、すなわち、完璧であるはずの「世界の世界性」という本質的能力の限界が、ことばによって露呈されてしまうのではないか、という誤読に人間たちをリードしてしまうのではないか、という惧れが残存するからである。
物理学的応答、すなわち科学的「学」による理論チャートによっては述べ尽くすことができないがゆえに、人間たちの認識論的創意工夫というものは、一種の尊さを宇宙に響かせている、とも言えることだけは確かではあるのだが。
だがしかし、どれほど足掻きに足掻こうとも、人間的スケールの知とは前-最終的真理に過ぎないのであり、当然のことながら、一部の人間たちはその限界ゆえに、すでにして打ちのめされているはずだ。
きつねのわたくしからみても、そのような無謀なだけの挑戦の、脆さに気付かぬチャレンジングは、不可思議で非効率的な営為としてしか映らないのだが、全き世界に対する挑戦状としては、狐族の発想よりもユニークであるかもしれず、決して、単純に見下げた行動として高を括(くく)ることもできないだろう。
特に、人間たちの哲学界における難問である「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という未解決問題に対するトライなどは、目を瞠(みは)って余りあるものがある、とだけは言っておこう。
そうか。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いに関して、わたくしはなぜかこの第六十八章に至るまで放置していたのではあるまいか。
いや、そうなのだ。
そのことをすっかり忘却していた、いや、忘却させられていたのだ、自身の思考の乱流に溺れて。
この究極の問いの解決こそが、タナトフォビアを超越するための原始プログラムとなることは間違いない、というところまでは確信がある。
その断言に間違いはない、と胸は張れるが、どうもラスボスという感触が、究極の問いからは漂ってこないのだ。
このもやもやのフラクタル図形とは一体どのようなかたちを成すのであろうか。
わたくしは、未(いま)だ戦いの序章において、進軍第一歩のラッパを鳴らし始めるフェイズを繰り返すという無限大の発散に、絡め取られているだけなのだろうか。
孤軍奮闘状態で同じ時空の同じ因果関係を再帰し続けているだけなのかもしれないのだ。