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『完全無――超越タナトフォビア』第八十二章

(きつねくんは、リロードのファンクションキーをことさら丁寧に押す人差し指ほどのスピードで、しろとウィッシュが座るやや過信気味なゾーンに向き直り、まばたきをひとつずつやわらかく交わし合い、哲学的かつ非哲学的かつ哲楽的なおしゃべりをコンティニュー(またの名を「希望に至る病」)してもいいかな、という合図を、己の背筋を若干大袈裟に伸ばすことで、ちょっくら懐疑的な空気感に包まれて座っているチビの視線へと伝える。)

チビたち、いいかい、ホワイトボードに向かって円(そのフォルムが機械的なものであれ呪物的なものであれ)を描いて、これが世界だぜ、この円こそが世界そのものをあらわしているんだぜ、と指し示す類いのアクションは、認識論的にも存在論的にも極めて不味いプレゼンテーションにしかならないんだ、ということをまずもって知ってほしい。

なぜならば、完成すべき(つまり、その円がその円として如実に完結するために、あらゆる経路、つまりは生成と消滅のあらゆるプロセスのその全域を、時間的・空間的に必然的に経過してきたものと捉えた場合、その経路の最終地点を自律的に体現しようとしている)円というものは、概念時空において、始点=終点という任意の呪い(ひとつの点)を刻み込むことがいつでもどこでも可能だからである。

つまり、円そのものが無限の点から構成されている、という分節的構造からは逃れられない、というそのことを完成間近であるはずの円そのものが自白せざるを得ない状況というものがまずあり、さらに、結界点(それは【理(り)】にとっては決壊点でもあるのだが)という名の楔を、その円の観察者である人間たちが任意に打ち込むことができる、ということが、完成形の円という概念に、はじまりからおわりへと向かわざるを得ない動的な宿命として、楔の前後に開裂の流れを生成せしめるからである。

裂け目が、時計回り、もしくは反時計回りに、距離化可能な近傍の無限のずれとして、円の動的平衡性として、呪縛的にリンクする。

完成形の「閉じた円環」のその内実は開裂の無限のずれの回転であり、思惟の数だけ円のフォルムに差異が発生してしまう、という認識論的かつ存在論的に重大な過誤を、円自身が憐み深く導いてしまわざるを得なくなる、ということでもある。

また、ホワイトボードに浮かぶ円そのものが、(仮に世界そのものを背景として把捉した場合に)内側と外側とを分かつ結界線となってしまうということも、【理(り)】にとっては過誤の情報であり、そのような嘘っぱち(としての円)を床の間にぶら下げて、フェティシズム的に観想し黙想するという仏教的な自己啓発ゲームは、前-最終形真理という呪いの毒牙の毒性をさらに強めるだけであり、人間たちがますますの頽落化に陥ってしまうということを明白にするだけなのではないだろうか。

偶発的に、恣意的に、とある一点を選び取る余地のある概念としての円、そのような円を、その円の外側からであれ内側からであれ、ともかく完成させようと画策する行為者として、神のような存在者(円の外側・内側からだけではなく、円を超越した場所から予定調和的に手を下したり、円そのものとして無から突如として創発してくるようなサムシング・グレートを持ち出してきてもよいが)という神秘のことばに関連付けることは、「世界の世界性」という非哲学的体験知にとっては無意味だ、ということなのだ。

そういった宗教的な文脈の中でも若干の有効性を持ち得るのはZENの不立文字という核心的標語くらいではないだろうか。

既存の仏教哲学にも学ぶべき点がいくつかは残っている、ということだ。

しかし、ことばというものを物理帝国主義的に、もしくは祝詞原理主義的に操ること(それが、言霊という神道的スピリチュアリズムの発動に依拠していようといまいと、量子力学的時間発展における相互作用描像に依拠していようといまいと)ができると盲信している人間たちが、論理空間の中で、その人間たちみずからのためだけに証明しようとする場合の世界の定義に関しては、どこまでいっても世界の「ずらし」にしかなり得ないのであり、そのずれた「世界の世界性」と【理(り)】の非哲学的体験知とを比較でき得ると仮定した場合、その「ずれた」方の世界のディメンションとはとても欺瞞に満ちた、いやむしろ超越的ジャンプすら無効化するような圏域なのではないか、という疑義をわたくしたちは一旦は挟んだ方がよいと思うのである。

それこそがまず基(もとい)だということ。

実は、そのような誤った言語論的領野を無次元的に踏み越えることがなければ、わたくしきつねくんの【理(り)】(それは霊界的帰結や肉界的帰結を断固拒絶するタイプ)には、身心ともに無的には帰着できないということ。

人間界の人間的思想だけではなくて、人間界以外の動物界にとっての世界とはなんなのか、無機物界にとっての世界とはなんなのか、そういった一切合財をも含めたうえで、世界そのものを無的に識(し)るべきであり、無数の仮説が蔓延(はびこ)る科学的・宗教的定義に対して、ある種の究極ニヒリズムと言ってもよいような根源的な執拗さを押し付けようとする、そのようなトライこそがこの作品においては重要なのだ。

わたくしは人語を操るような狐(ただし、霊獣や妖怪の類いとは違って尻尾は一本もないのだが)でありながら、いや、そのような異な狐、浮世離れしたわたくしきつねくんであるからこそ、人間界を超えたあらゆる非金剛・非胎蔵watch-towerから、人間たちへと静謐なる絶叫をお届けできるのではないだろうか。

狐でありながら、いや、狐であるからこそ人間たちに対してそのように裸の魂を漲らせながら再度、声を荒げさせて頂こうではないか。

任意の円を任意のスペース(なんらかの背景)に描き、その円全体に世界のあらゆる可能性(とその成就)が含まれると断定することはできない相談である!

わたくしの提唱する【理(り)】とは円という概念では表象・表現し尽くせないものなのだ。

【理(り)】は結界を持たず。

【理(り)】は決壊を待たず。

【理】とは、森閑とした山の吐息のひとつを数えるように、複数の真理の中から唯一の、つまり真なる真理を選び取れるようなものではない。

真も偽もへちまもありはしないのだ。

ひとつの真理、というものはありはしない。

【理】は数えられぬ。

【理】は「0」でもない。

あらゆる計算可能性・演算可能性をすでにして拒んでいる。

「0」という記号はただ「0」としてのみ存在することができぬ悪法に過ぎない。

0.01から0.01を減ずることで完成する0もあれば、0.01に0.00を
乗ずることで完成する0もあるだろう。

そのような記号は俗信的圏域における「無」にこそふさわしい。

完全無とは操作不可能である。

「世界の世界性」としての【理(り)】はそのような動的な多義性を発動するような枚挙性、いや、あらゆる数学的真理性とはもとのもとより無縁なのだ。

ここでさらっと呟いてみたいことが一つある。

完全なる有というものは信用に足るものなのだろうか、と。

だがしかし、それに関しては別の章にとりあえずは譲ることとしよう。


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