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『完全無――超越タナトフォビア』第四十八章

おあとはよろしいようなので、素敵で不敵な普遍性ある独断と偏見のことばを、再び垂れ流して参りたいと存じます。

混沌たる集合体、非存在としての「道」などというワンネスは、「世界の世界性」とは呼べぬ!

東洋思想の源流における「道」という概念をここに放棄する!

ことばにベクトルを宿らせ、四方八方に対義語連関をこしらえることへの逆算としての「万物斉同(ばんぶつせいどう)」、すなわち万物を逆流的に、放射性炭素年代測定的に突き止めて、すべてはワンネスである、と仮定する説のことであるが、その説と顔を突き合わせる必要が、世界にとっては、ない!

古代中国における荘子の『荘子(そうじ)』内篇に出てくるようなそのようなスタンスは、思考訓練として部分的には理想的な概念装置ではあると思われがちであるが、究極の【理(り)】としての「世界の世界そのもの性」においては、迂回路としての果てしない道に過ぎない。

なぜなら、世界においては万物という全一は根源的には、ない、からである。

万物というのは、ある、ということの言い換えに過ぎない。

全きものと言えば、それも、ある、ということの言い換えに過ぎない、
となれば、万物というものは、その「万」という数詞がレトリカルに表徴するように、個物の数多性(あまたせい)であり、数多性を総合的に巧妙にすり替えたところの全体性・全一性ということになる。

なぜすり替えなのか、という点は後の章に譲るとして、さしあたりはともかく全体的・全一的昇華としての「万物」とは、何もかもを内包できる混沌とした全体性・全一性と、それを構成するところの主体・非主体的集積、つまり部分部分という分節性のひとつひとつとが、等価である! と告示し、人間が求めるべき境地としての「すべて」を倫理学的・教条的に諭しているに過ぎない。

そのような迂路は常識だけを盲目的に理論武装した人間の通る道である。

世界は、「ある」それのみ!

それだけである。

なにが? と問いただすその態度こそ、本来的にもっともいらないものではあるのだが、いらないものとは何なのかを追究する義務がわたくしには発生しているということの証左でもある。

なにがある? というその質疑こそが、【理(り)】からの遠のきである、と言わざるを得ないことは火を見るよりも、いや火を見ずとも素朴にあきらかではあるのだが。

「ある」それだけである、をからだで捉えることは難しい。

「ある」だけである、ということである、というまだるっこい表現もなんだかいかがわしい。

前-最終的真理の先の奥義である【理(り)】からわざと遠ざけたような文を構築してみるとすると、その曖昧さにたじろぐことになるのも確かだ。

たとえば、
――全きものがある、ということである――という文。

または――全きものを構成するなにものかがある、ということである――という文など。

「ある」のニュアンスに翻弄されてしまい、定義が揺れてしまう。

ともかく、彼は馬鹿である、とか、彼は秀才である、などという文章における主体や、文中の「ある」を修飾するような類のあらゆる単語も、真理のさらに奥にある【理(り)】からは迂遠であり、虚飾に満ちた常識的認識への、遠大なる脱線と化すこと請け合いである。

【理(り)】は主語にも述語にもならない性質のものである。

そして、「ある」ということばは文法的には、動詞である。

動詞であるということは、世界とはなんらかの「動き」を示し得る概念に過ぎないのではないか、という疑問が生じてもおかしくはない。

おかしくはないが、「ある」というふたつの文字より構成されるところの、この動詞を見つめるとともに、脳内、いや全身全霊でこの二文字を最終的には消してゆかねばならないのだ、と一旦腹をくくることが肝要であるかもしれない。

それが【理(り)】の本義であり、(そんなことはないとはわかっていても、ことばとして、レトリックとして無理に表現するならば)【理(り)】の側が人間たちに求めているスタンスなのである。

くどいようだが、「あるということがある」という文章も成り立たない。

世界とは「あるということである」という文章もあり得ない。

主語性と述語性を廃することでとりあえずは残る「ある」という二文字にのみヒントはあるが、その先にもさらに進むべき境位がある、ということをここでは予示しておいたのである。

【理(り)】とは分けること。

「分ける」という根本的部分に関しては、朱子学における重要テーゼ「格物窮理」における「理」と同義である。

あらゆる余計なものとそうでないものとを区別してゆくこと。

しかし、わたくしきつねくんの標榜するところの【理(り)】とは、究極の断捨離ではあり、【理(り)】に辿り着くということは、ことばの上では矛盾しているかもしれないが、実は、最終的にはことばそのものも焼却するための最後の火種である、ということをもあらかじめすでに含まれている。

【理(り)】とは単なる「ことわり」としての機能に終始するような類のアイテムではなく、存在論的にも、形而上学的にも、ことばというものの最後の火種の最初の明るみのことである。

【理(り)】に邂逅することで【理(り)】と訣別することができる【理(り)】こそが究極の、タナトフォビアを超越することのできる【理(り)】なのである。


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