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『完全無――超越タナトフォビア』第百十四章

たまには章ごとにサブタイトルでも付してみようかと思い立ったのだが、たとえば、「空も中道も非有非無も、ニセモノの無を媒介しているが故にダウトであり、構造も脱構築も――あらかじめすでに――存在し得ないが故に却下する、ということの功罪について」などという目も当てられないようなセンスの文言しか浮かばないことに気付いたので、とりあえずは保留ということにしておこうと思う。

さて、この辺りで、わずかばかり冒険的なわたくし流の生物学的かつ進化論的かつ宗教学的かつ哲学的命題を一言、この章を始めるに当たって吐き出させて頂けると幸いである。

わたくしなんぞは、痴愚を味方に付けた類いの狐であり、その思想たるや大言壮語の極みではあるが、愉しく頼もしい愚鈍によって背中を急き立てられて大きな一歩を踏み出さないことには何も始まらない、そのような強迫的熱意のおぞましさに打ち震えるための章が、まさにこの第百十四章であろう、とわたくしは今のところ解釈している。

さて、その命題とは何か。 

あらゆる「後付け」は生命体を哲学的に無能にするカルト宗教である。

これである。

チャカポコチャカポコ、あるかなきかの、ビッグバン、無より生まれし、ビッグバン、無から生まれりゃ世話がねえ、膨張膨張膨張のコッペパンだよ、おっかさん、観察記録、望遠鏡、データだデータ、至上主義だよ、データ教、諸説あります、相対主義に、懐疑論、チャカポコチャカポコ、科学化け学、安定と、ああ欲望の、いたちごっこさ、物質よ、無機の化学に有機の科学、われらが星は、ビー玉よりも、きせきの球だよ、おっかさん、ゲノムだゲノム、コピーコピピピ、ピピピピコピー、ピピピピピピピ、情報交換、情報地獄、脆弱性も、たまにあります、遺伝子教の、自己の複製、自己の修復、鋳型の歯型、ギギギギギ。ギギギ鋳型は、連なる鎖、DNAにRNA、メッセンジャーだよ、おっかさん、螺旋螺旋の大行進、二重らせんの立体構造、チャカポコチャカポコ、悟ること、そんなことなど、識らずとも、脳の味噌、それより幾分高級な、遺伝的なる宿命と名を持つ素敵な代物で、分節以前のこころを宿し、いのち以前の自然の摂理、悟り顔にて、単細胞の、ああ単純な、ああ明快な生物よ、君はああ、その発生の時代より、静慮的なる涅槃を超えたその境地、おそらくは属性として、元の元より持ち合わせてはいたはずの、単純で清澄なりし、わたくしたちの原初の姿、何の因果か、環境の、まさに偶然、系統的な進化が滾(たぎ)る流れと共に、自ずから二身(ふたみ)に別れ、性なる多様、ダイバーシティ、その分身をさらにまた分身分身分身と、樹形図よ、その数々の分身を、あっちゃこっちゃに散らしては、気付けば時の速さ奴(め)が進化の歩幅、上回り、誰も彼もが融合と分裂サンバに狂い咲き、因果の海に浮かれに浮かれ、陰に日向に時そのものを、見失いつつ、自ら分かれ、自ら分けておきながら、分かれてしまう現象のあらゆる事物に対しては、あだ名なんぞを付け回し、鳥のさえずり、徒歩(かち)の律動、心(しん)の拍、あな、みおやがみ、うたの掛け合い、受け授け、文字(もんじ)のあそび、八百万(やおよろず)、分類学の、名辞ゆたかに、名の基(もとい)、由来なんぞを、「後付け」続け、諸説あります、腐心するなり、ああ言語学、霊長類だよ、おっかさん、ホモ・サピエンス、進化は退化、経験と慣れ、遺伝地獄の閻魔帳、証拠あります、その生き様に、その死に様に、反証の可能性より迅速に、経験主義の因果な銀河、上書きします、後付けで、後の祭りが、さても豊かな存在の、いや存在の、大いなるかな、鎖の軋み、ああヒト科、ホモ・サピエンス、千代に八千代に緊縛の、さあ世の習い、日常的な、夜を日に継いで、ハビトゥス・ハビトゥス、慣習的だよ、おっかさん、豊穣、多産、肥沃、淫欲、慈母は地母神、あいのちのみなもと、母胎の母胎よ、遥かはるかに、チャカポコチャカポコ。

そうなのだ、人間たちはそのよう慣習という拷問に掛けられ続けることとなったという次第である。

後追いすること、つまり後付けによって、あらゆる事象の名前が持つ意味とやらを統一的に把握しなければならない、という言語学的繰り返しに、いわば種々のアプリオリ性によって仕組まれた民族的強迫性に、人間たちは締め上げられながら、遺伝的受動性によって概念の後付けに勤しむことで、帳尻合わせを成さねばならなくなったのである。

生命誌的先天性と民族的遺伝学とはあらかじめ密約を交わしていた、というわけである。

その遺伝学的規定をベースにして、習慣の歴史は快や苦という感情的所産の精神史の中核として、また、人間たちのさまざまな文化的表現の発動に対する強制的な動機として、今もまだ歴然と君臨し続けているのだ。

世界には、モノやコトがあだ名として現象界に無尽蔵に溢れ出ることとなるのだが、統辞的ルールの原型たるアプリオリな生理学的機構も、多岐に渡る名辞の歴史学的奔逸と伴走しつつ、遺伝情報として極度に肥大化していったはずなのだ。

そのような名辞の一種としての「数」という概念の起源を想うことも、この作品においてはある程度の有効性を持ち得る、とわたくしは鑑みる次第である。
 
木の実を並べたことも、貝殻を並べたことも、石を並べたことも、悪夢の始まり(「数」とは原罪である)に対する補遺、附録、付記、尻拭い、つまりは、アプリオリ性に対するアポステリオリ的な現象世界に対するデモーニッシュな微調整(ファインチューニング)、であった。

アプリオリな原認識規定にそそのかされながら、アポステリオリにその確からしさを後付けする人間たちが、是非とも世界の文明化には必要とされたのだし、人間たちもその後付けに奔走することで、飽くまでも自律的に世界の豊饒性を次々に効率的に塗り替え続けることに進歩的優越感という充足の酔いを愉しんできたはずである。

いや、人類はすでにしてそのような狂喜乱舞の強制を運命付けられていたはずだ。

行為の反復と習慣化という経験論的なヒトのありようが、現象世界の切り刻みを一般化していったのだが、そのような他動的な現象世界の分節化が始まった瞬間だけではなくて、生命体としての自動的な分節化、すなわち単細胞生物の細胞分裂の時代における進化論的枠組みにまでわたくしたちは思いを馳せつつ、人類の時代の「後付け」の是非を問うことも、この作品においてはあながち不当な行為だとも言えないだろう。
 
そこには、学ぶべきものがたくさん転がっているに違いない。

しかし、その部分に固執することは、完全無を無的に浮彫りにしてゆくというこの作品の一つの思惑が有的な意味で不透明になる恐れがあるので、わたくしたちはなるべく効率的にこの作品を構築するために、わたくしたちの宿題として、この作品外において学びの時間を設けるべきであろう。

さて、分裂、分節、つまりは「分けること」、「分けられること」、そこには人間たちの好物である対義語や否定語の源流がたくましく匂い立ちながら蠱惑的に轟いているとわたくしは想定できる。
 
分節に関連する概念として、ここで、無限や有限それらの定義域について軽く吟味してみることは可能だ、ということ。
 
物理学的な概念である引力にせよ斥力にせよ、弱い力、強い力、はしたない力、鼻息荒い力、まあ性質によって名指されることばが何であってもよいのだが、ともかく、あらゆる運動、あらゆる動き、あらゆる働きというものが、境界線を持たない純白の画用紙という場の中で、それを黒く塗り潰し続けようとすること、その行為の全域、それが無限という動的概念の表現領域として定義できないだろうか。

画用紙を完全に黒く塗り潰すまで已(や)むことなく散乱し続ける存在者としての粒のポテンシャルが、エネルギーの許す限りにおいて、延々と位置を変え続ける粒の流動性を表現する、というところに、人間たちのこよなく愛するところの、無限なる概念のイメージというものが集約されていないだろうか。

完全なる黒を目指してはいるのだが、完全なる黒に辿り着くことはできない、ということ。
 
粒と粒との間には何があるのか。

空間には何かしらの隙間がある、ということが、無限という概念を常に無限化して止まないはずだ。

さて、人間が想像したり認識したり判断したりすることと、無限という概念とは、常に肩を寄せ合っている、とわたしは高らかに叫ぼうではないか。
 
しかし、それは批判的な吟味としての咆哮であって、決して歓喜の雄叫びではない。

「世界の世界性」とは、無限や有限という規律に従うことなく超然的なもの、すなわち完全無という特質を持つのだとすれば、すでにして画用紙は黒く塗りつぶされている、というわけではなくて、すでにして色すら持たない画用紙が存在する、というわけでもなく、画用紙の輪郭や、それを空間として担保するバックボーンそのものですら存在しないのだ、という結論が用意されている、ということなのである。
 
圧倒的にありありとした有(それは途方もないまやかしの世界観なのだが)に己の肩を持たせ掛けることなく、完全なる無は平然として無である。
 
動き続けることも、いずれ静まることもない。
 
すでにそうであるのだから。
 
人間たちよ、絶望したまえ、そしてすぐさま希望に身を震わせることなく、ただ不思議に笑え。
 
そう、世界は動的でないのと同じく静的でもないのだ。
 
どちらのことばを先に人間たちが使用しようとも、あらゆることばは後付けであり、ことばそのものの発生を定義することも、進化論的事実と目される仮説からの受け売りによる後付け、生物学的生命誌を繙(ひもと)く歴史学的ロマンティシズムからの情緒的余韻というものは、まあ確かにマジカルな喜悦と呼ぶにふさわしい素敵なものだが、何にせよ分類学的節度に敏感になることは哲学的考察においてはあまり必要とされるべきではない、とここで断じたい。

対義語や否定語を捨ててこそ世界そのもの性を感じ取ることができるはずなのだ。
 
いや、ことばなど懐胎する前から、そう、世界はなかった。
 
そういった恍(とぼ)けだけでも良かったのである。
 
定義など必要ではなかったのである。

現代の宇宙論的に世界を鑑みても、たとえば、宇宙全体が負の曲率を持っていようと、正の曲率を持っていようと、ゼロの曲率を持っていようと、それらの説は、「なんでもあり」・「人それぞれ理論」という究極の相対主義を無的に超えることができないのだ、という自覚に人間たちが到ることができているのだろうか。

世界という完全無においては起点という特異点など存在しないのだ、という判断から導き出されるべきは、まさにそれら相対的な場そのものが厳密的かつ本来的にはあり得ない、という限界を表現していることではないだろうか。

完全無においては、「幅」という概念に規定され得る概念、つまり存在論的燻製品などという非頽落化された人工的な理が匂い立つことはない。
 
すなわち、香り豊かに、いやむしろ鼻をつんざくような知覚を揺さぶる概念の密度などというものをわたくしたちは措定することはできない、とわたくしは真摯に考える。
 
現象界の事象が、人間的「学」のあらゆる規定による操作によって、膨張したり収縮したりするということはない。
 
そのような動的な特性を世界そのものが持つことはない。

現象とは単なることばであって、記号であり、それが実在の存在者とどのような対応関係を迫られているかどうかという議論を世界そのものに呼び掛けたとしても梨のつぶてであろう。

そのような議論が、いかに衝撃的なポテンシャルを秘めていようとも、世界にとってはもとより無に等しい。

しかし、人間たちはあれこれとシミュレーション的思考による事象の定義を脳内で強制的に巡らせることに快を見出す能力に秀でている。

そのようなことは、完全無としての世界そのものがリクエストしたわけではないのだが。

まあしかし、秀でているということは、闘っている、いや闘わざるを得ない宿命の中に人間たちが投企されている、ということを意味し、それはそれでおぞましい尊さではあるのだが、人間たちは、何万年後かに覆されるかもしれない、いや覆されてしかるべき仮説のために血を注ぐ。
 
ホモ・サピエンス、彼らは、伸びやかなティンシャの音のすべらかさそのままに、歴史の真っ只中を、深淵という不可能領域として誤認されている動的なニセモノの世界、その無限の曲率、すなわち有としての世界を、存在者という自身の全重力ごと受け止めながら、どこまでもどこまでも転落してゆくようなその生を、逆に愉しんでいるようなところも見受けられる程だ。

(いのちの重さそのままに、非知と既知との鬩ぎ合いにも似た無限と有限との取っ組み合いに挟まれながら。)
 
疑義からの脱出、それは人間たちの奔逸的欲動であり、いささか強迫行為的でもあり、辻褄合わせのための隷従に満ちた行為ではあるが、世界を有として捉えたときには当然想定し得るところの、留まることを知らぬ、未来という希望(虚構)へのバトン、すなわち存在論的な鎖を、受け渡し続けたいという本能的営為ではあるのだろう。
 
最後にこの章を締めるために言っておきたいことがある。

ある、ということば、ない、ということばに、変換し、存在する、ということばは、存在しない、ということばに変換する、というルールを課して世界と常日頃から過ごしてみるとよいだろう。

人間たちは、「ある」や「存在」という世界に対する後付けのことばに従属し過ぎた、と言えよう。

「ある」や「存在」ということばをあまりにも文法に奉仕させ過ぎた、とも言えよう。

「ない」や「非存在」ということばが、「ある」や「存在」ということばの概念の枠外から発生しないだろう、ということを鑑みると、これまでのあらゆる「学」における「無」の扱いというものが、引き算された「無」である、という帰結を召喚するのは当然のことであろう。

その点、東洋思想の至高、禅(ZEN)における「無」の解釈は、ニセモノの「無」からの逸脱となり得る「絶対無」という概念を呼び覚ましたのだが、しかし、わたくしの推すところの「完全無」という完全無元論と比較するならば、まだまだ詰めが甘い、とも言えるだろう。

なぜならば、「絶対無」においてもやはりまだ縁起なる仏教的相対的残滓は払拭することができていない、という点が、論としてはあまりに曖昧であり不透明であるにも関わらず、その不条理性をただただゴリ押しするだけで、さらなる思惟へと分け入ることを自ら放棄しているように思われるからである。

もちろん、わたくしにとっての究極的な【理(り)】というものが、【理(り)】そのものを捨て去ることと同義であるという点で、ことばは自体はたいした意味も意義も元より持ち得ない、ことも自覚している。

この作品がなければ、わたくしはただただ何も言わずに生活を楽しもうとするだけだろう。

ことば自体が――あらかじめすでに――無効である、ということは、完全無ということばの射程内にあるすべての概念も無効、ということである。

さらに、完全無ということばに対する反論として考えられるのが、「無」という文字を使用することによる概念の脆弱性である。

「無」ということばの定義、そしてその境域をわたくしは根源的な虚妄として断じたのだから、完全「無」という文字におけるその「無」が完全無という文字を媒介して概念としての完全無そのものへと派生する限りは、完全無そのものもニセモノに値するはずだ、という主張が成り立つはずだ。

だがしかし、そのような反論は取り越し苦労である。

表現はどこまでいっても表現であるから、無の体感、無の体験をそっくりそのまま表すことはできない、ということを想起せよ。

だから、既存の「無」という文字を借用することで、新しい概念をでっち上げる方が効率的に相手に伝わる分、わたくしとしても穏やかに語りを続行できる、という楽しさがそこにはあることは確かなのだ。

ことばである限りは(それがナマの感情とどこまでも比翼連理化していたとしても)、どこまでも世界表現として無効である、ということは重々承知なのだ。

さらに、発端と終局が成立しない完全無、つまり、「世界の世界性」そのものに依拠することでわたくしは空間ということばの辞書的意味、つまり通俗性に根差した意味をも認めない、ということにもここで触れておこう。

空間という概念の定義域に対して、より精確な説明を与えようと尽力し、探り続けているのが科学という「学」であり、辞書的定義、つまり一般化された概念というものは科学という「学」に自動的に、そして広義的に拡大解釈を許してしまう態で依存している。

物理学は、空間という圏域について、磁場、電場、量子化された場、確率論的・統計学的雲、情報の関係性というシステムの、当為ではない自然的な必然性として存在可能性を常に動的に押し広げ得る幅のある何ものかである、という判断を下しがちだ。

そして、それらの存在可能性の正しさを、実験的に証明しようとする余地を与えるための口実をルール化したもの、それの寄せ集めが物理学を担保する人間たちの知の限界であり、それらを集約しすることで進化的な体系として普遍性を持たせようと人間たちが躍起になる仮説的知識の、その限界点でもある。

しかし、「有と無とがその接線を共有することはない」というわたくしの思想におけるひとつのルールに当の物理学が反してしまうことは、許されるであろうか。

科学的な空間という概念のその定義域と、完全無という概念におけるその甚だしき無空間性とは元より相容れない、という乖離が証明され続けるだけではないだろうか。

どれだけ小さな「幅」であろうと、どれだけ小さな変位、変化であろうと、もしくは、空間という概念を何らかの有の事象にとっての無的背景という意味合いに取ったとしても、発端と終局無き完全無としての世界においては、空間というものがそもそも成立し得ないのだ。

なぜならば、そのような「幅」を認めてしまったが最後、世界は有限もしくは無限という、わたくしのルールに反するところの、無と有との接触が表現しようとするかたちを、世界の様相として肯定してしまわざるを得なくなるからである。

どのような個物においても最小の単位など存在しない。

そもそも世界には「幅」などないのだから。

発生も消滅もない。

個物同士の関係性は存在し得ない、ということなのだ。

それにしても、今までの章の中で最も混乱に満ちた構成となってしまったとは思う。

御容赦願いたい。

この章は、混乱を丸まま記述するバタイユの一部の著作のような意匠ではあるのだが、まあそれも、そういう時期だからということで、最低限の推敲を施すに留め、そろそろこの章のフィナーレとしたいところなのだが、章の締め方がわからず困惑している。

まあ、混乱ついでに、完全無とタナトフォビアとの関係においてひとつ重大な示唆を残しておこう。

ありありとしたこの現象界(あらゆる「学」において、それはほとんどの場合、自明のものとして扱う)は――あらかじめすでに――存在しないのだから、生きものであるあなたが生物学的に死のうが、化け学的に死のうが、物理学的に死のうが、どのような「学」の名において何をしようが、それらすべての変成・変化とやらは無始無終性に淘汰されている完全無の世界においては何も起こらなかったことと同義である。

完全無の中にいるわけでも外にいるわけでもない人間たちがどのような言辞で世界を弄そうとも、何もかもが変わらない。

生成も消滅も完全に排除されている。

よって、あなたという主体はどこにも存在し得ない、ということに思い当たるだろう。

だから、生物学的に死ぬという一般論によって、消え去ってしまう主体を嘆く必要はどこにもない、とも言える。

何もない、ということは、何もない、ということだけであって、だからこそ何を語ってもよい、とも言えるからこそ、わたくしはくどくどと同じような言辞をいい意味で弄しているのだ。

すべてのことばは意味も意義も持ち得ない。

それがいかにも持ち得るように、規則という欺瞞に意味を持たせたのは人間たちの御都合主義に過ぎない。

わたくしたちは、単細胞生物を気取って、街を闊歩すべし。

無機物に成り切って、風に吸い込むべし。

無に成り切って、涙を流すべし。

いつか完全無の体感が、涙を喜びと名付けるだろう。

現象界という陳腐な世界観の領野においては、ひとたび特殊な、個物的な、些細な出来事、例えば葉の一枚がゆらぐこと、そのような事態が現成すると、モノとコトとが有限化と無限化のせめぎ合いに巻き込まれることになる。

たがしかし、有限も無限も嘘っばちである。

有限も無限も、その突き進む先はニセモノの無である。

引き算された無もニセモノなのだが、有といずれは接触する無、そのようなものもニセモノに決まっているではないか。

そういうことである。

人間たちは、なぜ「ある」ということばを発してしまったのだろうか、あるいは、発してしまうのであろうか、共通ルールとして甘やかしてしまったのだろうか。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という哲学における究極の未解決問題は「『なぜ何もないのではなく、何かがあるのか』と問うてしまうのか」という問いへと上書きされるべきなのだろう。

世界に対して、どのようなことばを当て嵌めようとしても無駄である。

世界に対して世界ということばを適用することもできない。

世界に対して科学的な解明を施すことも世界には通用しない。

それは後付けとしての人間たちの智慧であり、人間たちにだけしか通用しないものである。

科学は元よりそのような宿命を背負っている。

そもそも、科学というものは世界からすれば虚構である、と主張するだけでも実は弱い。

科学であれ何であれ、あらゆる概念という存在者は存在しないばかりか、存在そのものも存在しない。

さて、最後にひとつ、ふたつクリティカルなことを言わせて頂こう。

引き算されることの恐怖、つまり無化によるニセモノの無の体感、それこそがタナトフォビアを召喚する。

完全無という体感・体験は、しかし、タナトフォビアを――あらかじめすでに――無効化してしまっている。

想像することの叶わぬ完全無、それを想像を超えた体感・体験として肯(うべな)うことができれば、タナトフォビアなど元より存在してはいけない概念だということがわかるだろう。

ありとあらゆる「ある」が闊歩し氾濫し殺到し反照するありふれたありありとした「ある」がそのありのままに完全に無であるということ、それがダミーワールドという人間たちにとっての奇跡であり俗習であり蒙昧でもあるのだが、完全無における特質を模したそのニセモノの世界からいかに超越することができるか、ということが肝要である。

完全無という名の「原約」は果たされることはないし、果たす必要性もないのだが、しかし、人間たちは人間たち特有の規約によってニセモノの世界を後付けで創造し続けてきたそのことを悔いるように見詰め直す時期を迎えたと言ってもよいだろう。

あらゆる「学」がいかに発展を成し遂げようとも、タナトフォビアが人間たちから潰えることがなかったのだから。


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