『完全無――超越タナトフォビア』第十章
さて、
今こうして、何かが「ある」という状況にいるということは、
世界には終わりなどない、ということである。
突飛だろうか。
世界と宇宙とを同義として把捉しないでほしい。
時間も空間もない、という判断は「前-最終形真理」としての最後のあがきであり、あがくことで次のなにものかへと進化することができる認識なのだ。
何かが「ある」、
ということは、
終わるなにものかが「ある」、
という状況が成り立たない、
ということである。
なぜなのか。
この段階ではまだはっきりと告示することはできない。
まだわたくしも達してはいないのだ、【理(り)】への全的理解には。
ただここで言えることは、たとえば空間という概念は連続的に存在するのか、それとも離散的に、つまり、空気中のシャボン玉のように存在するのか、というような物理的もしくは数学的な解釈は、世界に対しては必要ないはずなのである。
何かが「ない」、
ということは、
終わるなにものかが「ない」、
という状況が成り立たない、
ということである。
先の五行を、このように言い換えたとしても、わたくしの眼差しの質の濃度は変わりはしない。
チビたちや読者の方々に向かって何事かを語りながらも、牢獄の柵越しに、うちひしがれた罪人が、ひとひらの希望を眼差し返す如くに、時折その五行を見つめ返してあげたいと思うことだろう。