読みたい怖い本
読みたい本がある。なんて一文を元旦から書いていられるのはいい。小さいけれど、したいことがあるのはいい。その読みたい本というのが、なかなか怖いものだったとしても。
『ぼっちな食卓』は、図書館で検索すると30を超える予約が入っていた。出版は去年の9月で、それまで20年にわたり、様々な家庭の「食」の様子を追っている。
https://www.yomiuri.co.jp/column/henshu/20230929-OYT8T50015/
食卓を追うことの、一体なにが怖いのか。別に、一食一食の献立が恐ろしいわけではない。ヘビの生焼けを食べる人がいるとか、カエルの刺身がごちそうの家庭があるとか、そんな話じゃない。そうじゃなくて、その周辺の話だ。
たとえばダイニングテーブル。文字通りの食卓。その周りにある椅子は何脚だろう。仮に、ある家庭は夫婦と子ども2人の4人家族だとしよう。だとしたら、穏当に言って椅子は4脚あるはずだ。
これが揃っていない家庭がある。本がまだ手元にないので、これについて書かれた記事を読んでいるのだけど、その引用を信じるなら「たいていは夫の分」がない。らしい。
えっ、そんな殺伐としたことってある?と、一瞬、ビクっとしてしまう。
うちは両親が離婚した、いわば破綻した家庭だけれど、それでも同居していたとき、父親の椅子くらいはあった。というよりもしなかったら、父親がそれを許さなかっただろう。
「一日働いて帰ってきた親父の席もないって、どういうことだ?!」
きっとそう言って怒ったに違いない。
父は昭和気質の人ではあったが「誰が稼いでやってるんだ」とは言わなかったし、過度に家族からの尊敬を要求したりもしなかった。たださすがに、家の、それも中心に自分の座る場所がなければ、困惑し、猛烈な勢いで理由を尋ねただろう。
だから「夫の椅子がない」も十分、驚きではあるけど、それ以上に「それを許している夫」というのもよくわからない。「自室で食べるから、リビングに椅子なんかなくたっていーや」ということらしいけど、自分からすると異文化を感じてしまう。
率直に言って「なんじゃそりゃ」という気持ち。でも案外、こういうのが今時はスタンダードなんだろうか?自分が育った家が昭和すぎるのか。わからない。
確かに自分の家でも、家族が揃って食卓に就く機会は、年齢が上がるほど珍しくなっていった。両親が別居して、母方の家に引き取られたあとがそうだった。一緒だったのは小さい頃だけで、あとは祖父母が食事を摂る時間と、母や私が食卓に就く時間は常に別々。
高校生になってからはもう「みんなでテーブルに就く」機会は少なくなっていた。祖父母はわたしと同じメニューは食べないし、働いている母の食事時間は不規則だった。4人が一緒に食事をするのは、特別な日か、外食のときに限られた。
食事が「個」のものになっている。本の内容の一部は、誰もが身に覚えのあるものと思う。もっとも話はそれだけに留まらず、20年の変遷を経てひとの記憶がどう書き変わっていくかってことや、食事が映し出す家庭の、時にはゾッとする事情があぶり出される。
なんて読んできたように書いたけど、未読なので早く通しで読みたい。
内容紹介を見ていて思い出したのは、凄腕といわれたカウンセラーの話だった。その人は家族に関することを専門としていて、相談に来た人に最初にこう聞くという。
「家族の中で、最初にお風呂に入るのは誰ですか?」
この質問への答えで、カウンセラーはその家庭の核心部分をほとんど掴んでいる。誰が権力者で、あるいはもっとも気を遣われている人なのか。うちの母親はこれに「姑です」と答えた結果、さっさと子どもを連れて家を出ることを提案された。
もちろん、入浴の順番がすべてではなかっただろうけど、でもそんなことを思い出す。