恩忘れ
「恩知らず」はあっても「恩忘れ」はない。人は実際のところ、受けた恩を意図的に知らない振りをするより、単に忘れていることが多い。人は誰だって自分を善人だと思いたいもので、自分が恩に報いないひどい人間だと認めるくらいなら、忘れるほうを選ぶ。
なるほど「忘恩」なる言葉はあるけれどメジャーじゃない。使われているのは圧倒的に「恩知らず」だ。自分にも不義理をした人や、いまだにきちんとお礼を言えていない人がいるから、そう呼ばれても仕方のない単語。
人間同士だから、恩を忘れ見てみぬ振りするのは悪いことになる。でも世の中にはもっと大きな存在があり、人がいくら忘恩の徒であろうと、構わず永遠に恩恵を授けてくれるものがある。哲学の本を読んでいて、そんな箇所に行き当たる。
キリスト教の文脈では、そういう大きな存在を神と呼んだ。この世界は神を呪ったり、醜い争いに明け暮れたり、この世に不平不満を言う人で充満している。それでも神は日々、太陽を昇らせ雨を降らせ、花を咲かせ葉を茂らせる。忘恩の徒にも変わらず心傾ける、最高に優しい神さま。
フランスの哲学者レヴィナスは、そういうイエスの教えを継承している。イエスは言った。誰かが自分を愛してくれるから自分も愛する、そこにどんな善意があるというのか。善くしてくれる人に善くするからと言ってそれが何なのか。お返しを期待して人に与えるのは、罪人でもやること。だから何も返礼を期待することなく、善いことを成しなさい。
レヴィナスもまた、他人からの見返りを否定する。最終的に善行が私のためになるような「情けは人のためならず、巡り巡って己がため」的世界観を拒む。「私」に回収されてはならないのだ。そうじゃなくて、私ではない何かのために生きること、私とは無関係なもののために存在すること。「自分」に固執して留まったりせず、他人や未来といった手の届かないもののために生きること。
この難解な哲学者をどこまで理解できるかは自信がない。だけどその主張のぼんやりした輪郭を捉えるとそうなる。「自分」を出て行く思想。決して届かないものに手を差し伸べる、最初から挫折が決まっているような試みを、レヴィナスは描く。
他人は私のいない未来を生きる他人、その他者のために生きること。そんな言葉の続くテキストに触れていると、私がその恩を忘れている無数の人が浮かび上がってくる。それは自分の知っている人たちじゃない。むしろ知らない人、名前も知らないけれど、いまの生活や国の礎になっただろう無数の人々が、ぼんやりした顔を持って浮かび上がってくる。
踏んでいる道路を作った人、食材を運搬する人、貿易に関わっている人、農家で栽培をする人々、数え上げたらキリがない。パソコンを置いている机ひとつ取っても、それが店頭に並ぶまでどれだけの人の手が添えられたか。でも日頃そんなことにいちいち感謝はしない。私にも日々の生活があるのであって、昇る太陽に常に感謝を捧げたり、高度な発展を遂げる文明に逐一感動したりしない。受けている、あらゆる恩を忘れている。
ある意味ではそれが「完成」ということだ。人々にとってそれが当たり前になり、いちいち感謝すべきことではなくなって初めて完璧になる。「何が」と言われてもうまく言えない。
喩えるなら、日本に電気を普及させた人は、すべての家庭に「普通に」電球が灯るようになったとき初めて、己の目標の達成を感じたんじゃないか。「電気はすごい」と言ってるフェーズを超えて「使えて当たり前」になる。それが「報われた」ということ。
そういう生き方っていいな、と思う。レヴィナスの思想はいつも痛切な祈りのようだ。それでも自分は大事だって感じてしまうし、我が身は可愛いけれど、いつか遠くを生きる他者のために生きる、そんな発想も忘れたくない。
参考文献:
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。