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僕らはみんなヒモである。

 『現代フランス哲学』を読んでいる。渡名喜庸哲(となき・ようてつ)先生著。
 
 人間と自然の関係については、多くの哲学者が論じてきた。中にはミシェル・セールという人がいて、西洋の「人間は自然の所有者であり主」という考え方に、真っ向から異を唱えている。
 

「環境(environment)」という言葉には「取り巻く」という意味がありますが、セールによれば、そうだとすると自然環境と言うときに、やはり人間を中心において、その周りを取り巻くものを「自然」と呼んでいることになる。そこにはどうしても人間中心の見方があるのではないか、というわけです。
 
 では、人間はどこにいるのか。セールの見方はなかなか独創的です。人間は、自分を取り囲む自然に対して中心的、主人的な位置にいるのではない。むしろ、人間は自然にとって「寄生者」だというのです。つまり、寄生虫のようにして、宿主から栄養などあらゆるものを得るけれども、宿主には何も与えない。人間は「主」であるどころか「ヒモ」のような存在です。

渡名喜庸哲『現代フランス哲学』筑摩書房、2023年、215頁。


 ヒモ。いい表現だな、と思う。所詮、人間は地球にへばりついて生きるしかないどうしようもない存在だ。自然から恩恵を受けるけれど、自然に対してできることなんぞ何もない。
 
 よく「地球環境との共生」なんて言われる。このまま人類が自然を破壊していったら、最終的には地球が人にとって、住めない場所になってしまう……とか。ひとびとは地球環境に対して責任があり、道徳的なひとなら心を痛めて当然だ、みたいに言われる。
 
 どうですかね。たぶん地球のほうは、なんとも思ってないんだよな。なんか表面に貼り付いてるウザいの(=人間)がいるな……とは感じていたとしても、人間がいなくなったからって困りはしない。「地球のために」とか言われても大きなお世話だろう。
 
 自分もひょっとしたら「地球環境の改善のために~」みたいな言葉を、人生のどこかで使ったかもしれない。でもそれは嘘だ。ひたすら人間が生き残るために、地球のヒモがどうにかヒモであり続けられるために頑張りましょう、という話でしかない。
 
 そもそも人類だって自然の一部だろうに、そこを「自然と人間」に分ける意味あるのかな、とも思う。そんな風に2つ並べるには「自然」はあまりに巨大じゃないか。われわれ寄生者と同列に並べていいんだろうか。そんなん向こうのほうが懐デカいでしょ、絶対。
 
 本を読んでいて連想ゲームのように「母なる自然」という言葉を思い出す。こういうときに使われる単語はどうしたって「母」らしい。「父なる自然」とか「父なる大地」って聞いたことがない。お父さんは大地にも自然にもなれないのか。
 
 なれないんだろう。いま妊娠していて思うけど、胎児と母親の関係は、確かに「寄生」なのだ。胎児は母体から栄養を吸い上げ、みずからの血肉に変えていく。かつては自分が母親の胎内でしていたことが、今度は立場を変えて自分の身に起こる。
 
 母体である自分も、また何かに寄生して生きる。広い意味では地球に寄生しているし、社会システムに寄生しているし、産休に入れば経済的には旦那さんに依存する。産休は手当が出るとはいえ、給与の100%が保障されるわけではないから、単純に収入が減るのだ。
 
 みんなみんな、誰かや何かのヒモであり寄生者である。程度の差はあるかもしれないけど、人間と自然の寄生関係に比べたら、どれも似たり寄ったりだ。結局のところ誰も、すべてから切り離されて「自立する」なんてできないのだ。
 
 「寄生」という単語の響きは悪い。例えば「専業主婦は寄生虫だ」と、経済的に自立していない文脈で使う人もいる。でも広い意味では、だれもがなにかに寄生している。そういう自覚くらいは持っていたい。


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