自然と人工のバランス
「ハコだけが綺麗」という現象について考えてる。外側だけが美しくて中身が伴っていない、あの現象。表現としては「羊頭狗肉」が近いのだろうか……。
私立の中高一貫校の傍を歩いていたら、敷地のどこを切り取っても洗練されていて、植物はよく手入れされ、恐らく校内の設備も整っていて、ガラス張りの校内には光が降り注いでいることだろうと容易に推測された。小中学校は田舎の公立校に通った自分も、こういうところで育っていたら何か違っただろうか……と一瞬、夢想するくらいお金がかかっていて綺麗だった。
が、知り合いの私学出身者が千差万別なのを思い出して、すぐ我に返る。第一、近くを歩いていたその学校だって、そこの生徒にすれ違いざま中指を立てられたことを思えば、外から見えるほど上品なところではないのは明らかだ。外野が何を思ったところで、その中で何が行われているかは、内側にいる人しか知らない。何事も外見で決めつけるのはよくないね……と思いながら帰宅した。
建築関係の人が、以前こう言っていたのを思い出す。
「ハコだけ作ってもしょうがない、っていう思いがあるんです。例えば家の中で『暖炉』って、人が集まる場所だと言われますよね。昔のイメージですけど、そこでおばあちゃんが昔語りをしたり、家族が火を囲んだりする。でも、だからって『ここに人を集めるため暖炉を作ろう』ってなると、なんか違うと思うんですよ。集まるっていう行動が先にあって、そこに暖炉ができる。そっちのほうが正しいんじゃないかって。例え話ですけど」
その話を聞いたとき、自分は少し反省した。どちらかと言えば「人を集めるために暖炉を作ろう」という「ハコありき」の発想をしてしまいがちな気がしたからだ。そうじゃなくて、人の活動が先にあって、それに合わせて外側ができていく、それが自然なことなんだ──。そんな姿勢を、その人から教わった。
生活や社会活動っていうのは、人の意志と自然現象とが織りなす大合唱みたいなもので、誰かの「こうしたい」という意志と、「自然とこうなった」という現象が相互に複雑に絡み合いながらできている。人工的過ぎても自然過ぎてもうまくいかない。程よく手を入れて、それ以外はなるがままに任せて様子を見る。その加減が難しいんだろうけど、自分の思惑を一旦外に置いて、自然の成り行きを慎重に見守る姿勢が自分には欠けている気がした。
そのバランスはきっと誰にとっても大事だ。自然に任せ過ぎている人は、ちょっと強く意志を通したほうがいいだろうし、意志ありきで生きている人は、少しだけ自然の成り行きに任せてみてもいいかもしれない。なんでも自分で決められると思わないこと、でも流されてばかりにならないこと。今日は、そんなバランスについて考える。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。